一夜明けても

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     友人の葬儀を終えて一夜明けても、疲れは残っているらしく、一向にやる気
    が起きてこない。依頼されている仕事の締め切りも迫りつつ、尻に火が、にも
    かかわらず、だ。二度寝して遅い起床、いつもの朝食、珈琲を飲んで地下の
    指定席でCD探索に励む。昨日、バランチェッタのスタッフから、店内で流す
    BGMの依頼に応えるため。今までのBGMは店主尾崎さんが渋谷で選んで
    もらったものを、雰囲気に合わせてテキトーにチョイスしてたんだけど、今の
    スタッフはそれができない。25連奏のCDデッキになにが入ってるのかわから
    ないし、どれを選んでいいのかわかんない、ましてや音量や曲を変えることも
    できない。とにかく、今のCDの内容を一覧にして、こういう時にはこのCD
    みたいに、おおよその目安となるものを作らなければならないのダ。

     店のすべてのことは尾崎さんのアタマの中にあった、生きていればそれでOK
    だけど、亡くなった今、彼のアタマの中にあったものを推し量りつつ整理して
    誰でも出来るようにしなければならない。そうすることによって店の雰囲気は
    変わってしまうだろうし、混沌とした魅力は失われるだろうけど、それは
    いたしかたない。BGMでも同じコトだ。彼の考えを最も理解している者が
    彼の考えを受け継いでやってゆかねばならない、その適任者はアタイ以外
    いないだろう。そういうと不遜に聞こえるかもしれないけど、バランチェッタ
    のあらゆる雑事、営繕を一手に引き受けて来たこれまでの経緯から考えて
    みて、妥当なこととアタイは考える。

     亡くなる前に、BGMのことを聞かされたことがあった。誰でも知ってる
    有名な曲は外して、ヒットチャート中位の曲、あまり知られていない曲、
    いわゆる通好みの曲を流していたけど、最近80〜90年代のヒット曲ばかり
    を集めたコンピレーションCDを流したら評判が良くて、なんだよ、コイン
    の表そのままでいいんじゃん。まともでいいんじゃん。ベタで正解なんだ。
    それでお客さんが喜んでもらえるなら居心地がいいのなら、結果売り上げ
    向上ならば、それで行こう、そんなことだった。その感じアタイもよく理解
    できたから、そんとき大笑いしたんだよな。考えてみりゃ通人がいなくなり
    多くのお客様は音楽に親しむ機会は多くない、そんなら誰でも知ってる曲
    でいいってことだったワケ。

     でも、中には通人はいる。数少ない通人が唸るような曲も必要だろ。
    有名な曲ばかりじゃそこらへんのフツ〜の店になっちゃう。怪しげな客で
    満席になるのが夢だと聞いた事があったもんな。家族連れ、若いカップル、
    女性や男性のグループ、それはそれでいいけど、出来れば年の差甚だしい
    カップルとか曰くありげなグループみたいなのがいてくれれば妖しさな
    魅力が醸し出され、そんなバランチェッタであってほしいとね。音源も
    有線ではなくCDにこだわっていたのもそういうことでね。音楽関係者も
    けっこう来るから良い音で聴かせることが重要なコト。そのためには
    スピーカーやアンプだってそれなりのクオリティにしてきたからな。
    それが矜持ということだろ。

     物販店なら商品そのものが入れ替わるから、行くたびの印象を変える
    ことができる。一番大変なのは商品を入れ替えてつねに目新しくする
    することだと聞いたことがある。でもさ、飲食ではそれが出来ない。
    料理や食器はいつも同じだし、インテリアも時々に変える要素は少ない。
    花を飾るのはいいけどお金がかかる。そこで額入り写真を入れ替えたり
    並べ換えたり、多少なり目新しさの演出で「なにか違ったな」という
    印象を与えようと工夫していたとアタイは考えていたんだ。飲食店で
    以前来たときと違うなと思わせる要素として音楽もあるだろ。今ある
    CDだっていつまでも同じじゃダメ、少しずつ入れ替えないと新鮮さは
    失われ、客は離れてゆくかもしれない。

     で、入れ替えるにふさわしいCDを手持ちの中から探しているわけ。
    日々の客席の雰囲気に合わせてスタッフがCDを選ぶのは当たり前だ。
    ホールスタッフは変わる、どの曲を選ぶかはその人のセンスだけど、
    誰がどれを選んでも雰囲気が壊れることはないようにするのがアタイ
    の役回り。ってことで、まず、昼と夜に分けましょう。昼は有名な曲、
    夜はそれに加えて通が納得する曲も加えましょう。スッキリしたのは
    ダメ、猥雑で色気がありある程度アップテンポであり時にはしっとり
    感も。カップルが多ければそれに合わせ、宴会にも合う、年齢や性別、
    服装や会話の内容、それらすべてにマッチするなんてことはムリだけど、
    スタッフが選ぶ目安は作れるだろう。

     デッキに入るCDは25枚、毎月5枚程度を入れ替えてゆけばイイだろ、
    それならおよそ半年でぜんぶ入れ替わることができるもんな、と見当を
    つけて。さて、まずは汎用性のあるもの、どんなときでも流せるCDを
    選ぼうと、手にしたのは映画「フェティッシュ」サントラ盤、ラテン系
    のゴチャゴチャ感歯切れもいいから店の雰囲気は壊さないだろ。次には、
    今をときめくマデリン・ペル「Half the perfect world」。しっとり系
    だが合うに違いない。夜でも昼でもOK。残る三枚はベタだけどティナ・
    ターナー「foreign affair」、キャッチーな曲が目白押しの映画
    「メトロポリス」サントラ盤。と、トニー・ベネットとレディ・ガガの
    デュエット。有名な曲ばかりだし、年の差も充分だ。カップルが多い時
    にゃこれでいいし、そうでないときにも大丈夫な一枚。おまけとして、
    ビートルズ。名プロデューサー、ジョージ・マーチンが作った一枚。

     できれば追悼供養の一枚もあればと探したけど、そんなものあるわけ
    ない。ムリに決まってる、とはいえ諦めちゃいないけど。とにかく
    これを持って、今日行くんだ。亡くなった尾崎さんの可能性を未来に
    つなごう・・・・・・・なんちて。

    はてさて、流してみなけりゃワカラナイ・・・・な、店主でした。

    ツカレマシタ

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       友人が亡くなった。48才、このブログにも何度か登場した中目黒にある
      イタリアンレストラン「バランチェッタ」の店主。始めは奥さんと知り合った
      んだ。それがいつのまにかダンナの尾崎さんと親しくなっての14年間。出会い
      の記憶はついこの前って感じ、よく言われるけどアッという間のことだった。

       これで高額ジャケットを見せびらかすことは出来なくなり、バランチェッタ
      で軽口をたたきながら飲み食いすることも叶わなくなっちまった。おしゃれに
      一家言持ってた人だったから、葬儀に着用する服はええかげんなもんじゃ
      済まんだろ、高額ジャケットのポイントでズボンを買い、シャツも買おうと
      家に近い古着屋ZIRAへ。葬儀のことを話し、シャツ探しに来たと言ったら、
      顔が曇るんだ。冠婚葬祭のドレスコードは守らにゃイカン、それが大人という
      もんだ、黒のスーツに白シャツネクタイは外せないと言われちまった。確かに
      言う通りだ。なにも葬儀にオシャレは必要ないかもしれない。そんなとこで
      目立ってどうする、自己顕示もほどほどにせい、あれこれが頭を巡り、その
      お言葉に従いましょうと無条件降伏。それに告別式で友人代表の挨拶を
      しなくてはならないから、なおさらの事。

       ZIRAには高額ジャケット着ていったんだ。それを葬儀で着る気充分だったし、
      それに合わせるためのズボン購入だったからね。その帰りのZIRAというワケ。
      でね、指導の最中に、ジャケットのB面もあるかもと言われ表裏ひっくり返し
      たら、なんとこれが真っ黒で着れるわけなのさ。う〜ん、ギリギリだな、と
      ZIRA店主。告別式にゃムリだけどお通夜ならイケルかも。なんたって真っ黒
      で襟に刺繍が見えるだけ、マフラーで隠せばなんとかなりそう。ということ
      でお通夜はそれで行ったんだわさ。それにしてもジャケット高額だったけど
      リバーシブルとなれば半額得した気分、わかってもらえるかな。

       告別式はダブルのスーツをジャケット代わりにして、挨拶もなんとか乗り
      切って、葬儀すべてがおわり、家に帰ったら妙に気持ちが落ち込んで。親しい
      友人を失った故のことでもあるけど、葬儀に着て行く服で騒いでいるこちとら
      が大きな理由。ええ歳こいてなにやってるの、こんな老いぼれ誰も気にしちゃ
      いないのに、ええかっこしいもほどほどにせいや、年寄りは年寄りらしく
      おとなしく隅っこで小さくなってなさい、みんなそうしてるでしょ、そんな
      内なる声に気持ちが沈む。

       思えばいつもそうなんだオレは。先走りのお調子者、目立ちたがり屋で
      誉められたがり屋、注目あびたがりモテたがり、いつのまにか年齢を忘れ
      てしまい、相も変わらぬ成長もなき己に冷や汗がタラリンコ。大人は自分を
      コントロール出来なきゃねと公言してるにもかかわらず、自分じゃ全然
      出来とらんじゃんか! なんだそれは、と気持ちは坂道を転げ落ちる。
      自分のイヤな部分がトラック満載でやってきて、上からドサッと降ろされて
      身動き出来ないカラダとココロ。ま、そんな具合。

       おとなしくしてくれよ我がココロ、落ち着いてくれよ我がタマシイ。
      いくつになったら達観できるんだ、獅子身中の虫ならぬ目立ちたがりの
      一番星かいな。

      さておき、友を亡くしてツマンナイなぁ〜・・・・・な、店主でした。
       

      よう言うてくれた美由起さんよ

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         ココロ密かに敬愛している島村美由起氏、ブログが更新され一読思わず膝を
        打って大喜びのアタイなんだわさ。私のブログで探したら過去の記事を発見。
        こういう経緯があり、氏はアタイのことなんか忘れてるだろうけどさ。もしも
        ひょっとして思い出したとしても、不快な人物と記憶されていることだろう。
        その理由? いや〜こんなとこで公表できません。若気の至りのコトの行く末
        とだけ言っておきましょうか。

         でね、その美由起さん、二題の最新記事を書き下ろされていてさっき読んだ
        ばかり。一つはファッションに関する記事で、
         特にミレニアム世代の12歳〜19歳の人たちは男女の境目がどんどんあいまい
        になり、固定的な感覚を持ち合わせない傾向が強くなっていると言われています。
        私の周囲のこの世代では有名ブランド認めてはいるが、無印良品やユニクロや
        古着も認めていて、自分の認めているものを男物であろうが女物であろうが
        有名・無名関係なくファッションとして楽しんでいる若い人達です。この
        若者達は実に自由。のびのびしています。ラクそうにファッションを楽しんで
        います。渋谷や原宿にはこんなジェンダーレスファッションの人達が増加して
        います。


         これこそアタイが日々実践に勤しんでいるファッションであり、アタイの
        生き方考え方の根本中堂。氏は若人を対象とお考えになっておられるようだ
        けど、いやいやここに同じような心智の老人も居まっせ!と言いたいなぁ。
        「笑い」が時々の前衛であると同じようにファッションも前衛の一つである
        んじゃないか。新しいコトバが女子高生から生み出されることと同じように
        ファッションも若人たちによって創り出される可能性が高いなんてこたァ
        わかっとる。それにしても、新旧有名無名織り交ぜたごった煮闇鍋のような
        ファッションが堂々とまかり通っている今に生きることができて、ボカァ
        シアワセだなぁ。

         そしてもう一題
         中級クラス以上のアパレルショップで「出口までご一緒に」と商品を入れた
        紙袋を持って出口で見送ってくれる接客対応をよく受けます。これが私は嫌い
        です。嫌いな理由の一つは、買物した後でもまだ店内を自由に見たい気持ちが
        あるからです。帰りにもう一周すると、さっき気付かなかったステキな物を
        発見できるかもしれませんし、その店の雰囲気をもう一度味わいたいという
        気分もあります。この「最後にひと周り」が結構楽しいのですが、「出口まで
        どうぞ」と言われると、この「最後のひと周り楽しみ」が奪われてしまうの
        です。嫌いな理由のもう一つは、見送ってくれるスタッフに何の芸もない
        場合がほとんどだからです。


         確かになぁ、あれ気持ち悪いんだよな。さほどの高額商品でもないのに
        出口まで案内される居心地の悪さ。アタイの場合は慣れていない故の気持ち
        悪さだけど、最後の一回りを遮断されるってこともわかる。古着屋で買った
        後に、そういうことけっこうあるもんな。場合によっちゃ、もっとイイ服を
        発見して換えてもらうなんてこともあったっけ。

         コンビニのレジで釣り銭を受け取るときに手を添えて、も気持ち悪い。
        最初は「アレ? オレ様に気があるのか??」なんて思っちまった。お金を
        落とさないようにの気遣いなのかもしれないけど。上から釣り銭に手を
        添えるのはまだわかるが、アタイの手の下から手を添えるのはいまだに
        違和感がある。店員の方だってこんな年寄りのしわくちゃな手に触れるのは
        気持ち悪いだろうに。私にだけはそういうことやめてくんない、と言いたい
        けど、多勢に無勢アタイだけ特別扱いは出来るワケないからしかたなく、と。

         サービスがいいことは悪くはない(変な言い回しだ)けど、それも程度
        問題で、このまま放置しておくとトイレで放尿するときに脇から手を添え、
        なんてことになりかねない。えっ、そんなワケないって?いやいやわかり
        ませんよ。なんたっておもてなしがウリのニッポンだからさ。そんなチン
        サービスが生まれてもおかしくはない。

        相変わらず品下がって申し訳ナス・・・・・・・・・な、店主でしたぁ。
         

        困惑の日々

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           極少ない親しい友人が倒れた。脳内出血で緊急搬送、手術ののち未だ意識は
          戻っていない。そんな最中、数度お酒を飲んだことのある知人が階段から落ち
          腕の骨を折ったと、仲をとりもつ友人からの☎。なんだかかなり落ち着かない
          日が続いているんだ。

           こんなアタイだっていろいろ思う事はある。かの実存主義哲学の元祖・
          ハイデガーは、誰よりも自分自身を気遣うのが人間であり、あらゆることが
          自分の存在を守るためのものと言っている、らしい。存在を守るための究極
          の大問題が死であり、死がどういうものかわからない故に「不安」という
          気持ちが生まれる。そんな不安に陥ることを「被投(ひとう)」といい、
          死ぬ存在であることを受け入れて理解して行動を起こすことを「企投
          (きとう)」と言う、らしい。ちゃんと理解できていないからなんでも
          かんでも「らしい」で、曖昧なこときわまりないのが情けないけど。

           私は私自身を誰よりも気遣うことはおおよそだけどわかった。親しい友人
          が生死の境をさまよっていて心乱れているのも、友人の存在が私にとって
          大切である=存在し続けるために必要欠くべからざる存在だということ
          なんだろ。前回記事にした高額ジャケットの話をしたら「オレは買わない
          けど』と言ったのがこの友人でね。清水寺の舞台ならぬ屋根のてっぺんから
          飛び降りて買い求めて、真っ先に見せて意見を聞きたいと切望していた矢先
          のことなんで、見せることができないままに亡くなってしまうなんてェ
          こたァ断固として拒否したい許しがたい暴挙だと思っているワケ。

           私のファッションを誰よりも理解している友人だったからな。ジャケット
          が◯なのかバツなのかはたまた△なのか、それを聞きたいがために買った
          ということも少なからずある。果たして私はなんのためにジャケットを購入
          したのか、その理由を追及し真実を解明するためにはこの友人との会話が
          不可欠だった。だからなにがなんでも死の淵から戻ってきていただきたいと
          いうことなの。

           実存主義といえばサルトルか。ごくカンタンに言えばさまざまな夾雑物を
          ( )の中にいったん入れて脇に置いておく、物を取り巻くさまざなことが
          取り除かれれば自ずと真実が見えて来るということ、らしい。例えばの話、
          グラス。そのグラスはワイン用なのかウィスキー用なのか、かたちやサイズ、
          色が付いてるかもしれないし、値段や古さもあるだろ。グラスにくっついて
          いる(一体化してる)さまざまなあれこれを( )に入れて脇に置いといて
          グラスを見つめれば真実の姿が自ずと理解されると。筒井康隆氏の講演で
          このことを知った。一瞬、なるほどね、と思ったんだ。

           ってことはさ、倒れた友人に服をみてもらって是非の意見を聞きたいって
          のは( )に入れて置くもんか?。会えばひととき軽口を叩いたり、愚痴を
          聞いたり話したりすることもそうかもしれない?。友人の顔かたちや性格や
          生き方も( )の中に入れるのかな?でも、そうやってなんでもかんでも
          ( )に入れちゃうとなんにも残らないんじゃないっすか。いやいや、
          なんにも残らなくはない。微小な真実はあってそれに水をやり育めば真実は
          見えて来るってことっすか?

           そうかなぁ〜、そんなこと出来るんかなぁ〜。さらに例えばの話ですよ、
          恋人がいたとして、SEXするしないを( )に入れておいて、恋人と自分の
          真実の関係性を考えるなんてこと出来るんでしょうか? 精神と肉体は一体で
          切り離す事はできないし、カラダとココロの相乗効果で親しさは増し愛しさも
          増すってもんだろう。逆を言えば、会話とか理解しあえるってことを( )に
          入れちゃっていいの? 入れられるもんなの? そうなるとSEXが真実の姿に
          なるってこと? 団鬼六の「生贄夫人」はそんな内容だった気がするけどさ。
          こりゃ、生贄夫人もう一度観てみないとならんのかいな。

           つまりは、私が存在するために必要か必要でないかで取り巻くすべてのこと
          を無意識に判断しているんだろうか。当たっている気がするし、それ言っちゃ
          おしめ〜よという気もする。人間は日々新しい出来事に出会い、常に可能性を
          求め続ける存在である、なんてことも実存主義で言ってたような。死さえも
          オワリではない、とかなんとか。う〜む、困ったなぁ、よくわかんないんだ
          けど。とにかく私は私自身を、常に気遣いながら、いつかは死ぬことを理解し
          を受け入れつつ、常に可能性を探りながら生きて行くってことなんだろ。
          それが「企投(きとう)」ってこと? ま、そういうことで当たらずも
          遠からずで一件落着、ナンチテ。

          帰ってこいよォ〜親しい友よ・・・・・・・・・・な、店主でした。
           

          神をも恐れぬ一大決心

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             つくづく恐いのは、フラリ散歩。目的もなく店を巡ることの恐ろしさよ、
            ナンチッテ。どんなことでも目的があるってことはなんらかのイメージがある
            わけでさ、携えているイメージが判定基準となり、それよりも上とか下とかが
            あるでしょ。言い換えればあらかじめのなんらかのココロの準備は出来ている
            わけだ。それに比べ、フラリと立ち寄った先で思いもかけない出会いの場合、
            ココロが不意打ちをくらい衝撃波におののいて、みるみるうちにエントロピー
            は増大し思考停止かはたまた興奮は怒髪天を衝く極限状況に陥る。

             おいおい、そりゃ大袈裟すぎやしないか、今流行の超・天才・千載一遇など
            などTVで叫ぶ感動大安売りとおんなじじゃんか?そう言われるかもしれないな。
            でもですよ、ちょっと待っていただきたい。昨日、私が遭遇した衝撃の出会いは
            まったく垂直の大騒ぎでさ、67年生きて来たワタクシにとってあり得ない
            トンデモナイことだし、これからの人生でも不世出であることは疑いのない事実
            なのだ。多分。

             いつもの通り、髪を切ってから青山のショップ巡り。一本の通りにイッセイ・
            ミヤケの店が軒を並べている危険地帯。とはいえ、もうすでに買いたい服は
            ない、のココロ充満だからさ、本店、隣接する店、そのまた先の二店は滞在時間
            数分の表敬視察。あぁ、新しい店が出来たのね「me」、スタッフの美嬢と歓談
            しつつの店内散歩。駅に戻りつつHaatも新装開店だからチョイと寄って
            みようか、かなり以前ここでレディースのコート買ったっけ、そんときのこと
            覚えているスタッフがいて、かるぅ〜くお話、地下もどうぞなんて言われて
            何気なく階段を降りたれば・・・・・・・あったのよ問題のジャケットがさ。

             パッと見いいなと思ったんだよね。聞けばHaaT開店オープン記念で90年代
            の復刻版、おととい届いたばかり、インド製、真っ黒バージョンがあったけど
            すぐ売れてしまった、日本に一着しかない、次々と繰り出される決めゼリフに
            アタイのココロは動揺して転覆寸前。ちょっと小さいかな? 着てみれば
            ピッタシ!  よく見れば手の込んだ仕事ぶり、魅力は加速度的に急カーブ、
            ところでいくらするの? と問えば驚愕の金額で、いくらなんでもそりゃ
            手が出せませんよ、とかなんとか言いつつも魅力の奔流に抗う力はすでに
            なく、まるでスピード違反で捕まった柔順な子羊のようなんだな。

             まぁ、お茶でも飲んで下さいな。慌てる乞食は貰いが少ない、興奮を抑え
            ないと冷静な判断ができませぬ、地下から一階に移り、お茶を飲み、外で
            一服、ええぃままよ、どうせ死ぬんだし、あと10年生きてるかどうか
            わかんない、欲しかったオープンカーを買ったと思えば・・・・。そこに
            最後のだめ押し一言、今日までポイント二倍の強化週間でっせとスタッフは
            耳元で囁く。ポイント5%が10%になるってことだ。普段はそんなもの
            どうってことないわと嘯くアタイだけど金額が金額だけにこの5%の差は無視
            出来ないときたもんだ。

             こんな高額商品、きっと天罰が下るぞ、分不相応身の程をわきまえんかい、
            そんな悪魔の声と、いやいや服を買うんじゃない文化と伝統を買うんだ、
            イッセイ・ミヤケの心意気を買うんだ、芸術を身につけるのになんの遠慮
            があるものか、芸術に金銭の多寡を持ち込んではいけない、かの五味康祐も
            言ってたじゃないか、ありとあらゆる後押しを用いた天使の声が勝負なのだ。

             長いな、長過ぎるな、でもなこれまでの人生これからの人生でも二度と
            起こりえない事態に遭遇真っ最中だからこの程度の長文は許されていただ
            きたい。カードで購入しようとしたものの限度額オーバーであえなく散り、
            ならばと翌日と約束。その翌日朝(つまり今日だ)、カード会社に☎、
            限度額をUPさせるべく申請し待つ事2時間ほどでOK、預金をかき集めて
            いざ。


             HaaT店内カウンターでパチリ。左が問題のジャケット、右は専用袋

             専用布袋もシリアルNo.02が付き、この柄は日本にこれしかないんだと

             ジャケットのシリアルNo.だ。

             3月2日、メディアを招いてのプレオープンの時にはこのジャケットは
            届いてなくって、その後届いてから私が入手するまで二日しかなく、だから
            ほとんど誰の目にも触れていないということなの。もちろんHaaTのサイト
            にも載っていないし雑誌に掲載されてもいない。こんな経験初めてだから
            不思議な感覚でね。戸惑いトワイライトなんだわさ。

             なんだ結局自慢か? しょにょとおり自慢だ! 清水の舞台、それも屋根
            から飛び降りたんだから、自慢させてくでー・・・・・・な、店主でした。
             

            ガーターベルトふたたび

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               冬こそ半ズボン派のアタイに欠かせないモノはといえば靴下(っていうか
              レッグウォーマー)。それも厚手あるいはニット。以前も記事にしたけど、
              腿で締め付けるゴム製ではやはりというかズリズリ落ちてくるんだ。しかも
              経年劣化もあって緊縛力も落ちつつある。これじゃぁ半ズボンが穿けない
              じゃんか、足首リブ付きの長ズボンばっかりじゃいかんともしがたい鬱屈
              した気分。そこで、アマゾンで検索してみたら

               こんな短いモノ発見! 紳士用なんでアリマス

               手にとりみたれば、問題は靴下を留めるココ。きっとイギリス紳士達が
              着用する薄手膝下までの靴下用なんでしょう。

               挟んでヌィ〜とゴムを金輪に留めるということ。でも、これじゃ厚手の
              靴下はムリだし、ましてやニットなんかトンデモナイ。そこで次の一手と。

               対応可能な留め金具だけを注文したワケだ。

               これだ!

               まず、取り替える金具部分を切り離し

               ゴムの巾と金具の巾が違うから

               ゴム折り畳み〜の、輪っかに入れ〜の。そして折り返して手縫いと相成る。

               ふむふむと思う間もなくいともカンタンに出来上がった。見えないとこ
              だしこちとら素人だから、まぁこんなもんだろう。

               裏も見せるけど、真っ黒くろ助でな〜んも見えやせん。

               Y字形の分かれていないほう、つまり一本のほう、つまり上にくるほう、
              つまり靴下じゃないほう、くどいな。そっちは取り替えない元のまんま。
              冬期は間違いなく薄手の長袖シャツを着るからさ、おおよそ脇の下から
              裾(っていうのかな)までの間で適当な位置に固定すればいいだろ。
              アタイが所有しているレッグウォーマーたちは長さがまちまちでね、腿まで
              あるものから膝上、膝下までいろいろなの。およそ40〜50センチの長さを
              調整しなければならないの。ま、そういうことで。

               亡くなった義父があるとき言った「ヒロシさんは器用なのに・・・」が
              アタマの片隅に居座っている。「・・・」はどういうこと? それには
              むろん意味はある。この言葉が発せられた状況と大きく関わりがあること
              だ。それはそれとして器用。私は器用なの? そんなこと思いもしなかった
              ことだけど。器用なのか、義父がそう言うんなら多分器用なんだろう。
              ひょっとすると器用さだけでここまでやってきたんじゃないか、そんな
              思いがしてならない。それは格別問題ではないし悪いことじゃないのかも
              しれないけど、なんとなく釈然としない感じもあってさ、いささか複雑な
              気持ちになってしまいます。特に、こんな手縫いをやってるときにふと
              頭をもだげてしまうワケ。

               地下を作り、店を作り、多少の木工仕事をやり、ガッコで教え、デザイン
              という世界の隅っこに居る、それらのすべてが器用の一言で片付けられる。
              なんだか見透かされたような自分の限界をズバリ指摘されたような奇妙な
              心持ちになってしまうんだ。願わくば義父が冥界から蘇ってきていただき
              「器用」についてご教示いただきたいなぁ、なんてコト思う今日この頃
              なんですわ。

              早速、着用して髪切りに行こ・・・・・・・・・・な、店主でした。
               

              なでしこに一言

              0
                 なでしこのオリンピック予選が終わり、どうしてこういう結果になったの
                だろうかとちょっと考えた。いろんな要素が絡み合ってのことだろ、なんて
                こと誰でも思うだろうけどさ。比較するのもおこがましいけど、私が講師を
                しているガッコでのことがどうしてもアタマをよぎってしまう。

                 私が教え始めて45年ほど経つけど、その間印象に残る学生はとても少なくて
                なでしこのメンバーも同じような状況なんじゃないかと思うワケ。入試もない
                専門学校の学生とちっちゃな時から練習に明け暮れている選手と比べるなんて、
                と叱られるかもしれないけど、なにごとによらず世の中いずこも同じ秋の空
                かもしれない、とね。ついつい思ってしまうのですばい。
                 それに人望のないアタイだし人を見る目もかなり怪しいアタイだから、なに
                言ってるんだということかも知れないけど。

                 考えてみれば前回のワールドカップ決勝でアメリカ相手に同点ゴールを叩き
                こんだ澤選手はまさに奇跡的なことで、あれを観たときは「神風」が吹いたと
                思ったもんだ。もうこんなこと二度と起きる事はないだろ、とね。澤選手の
                ような傑物がそうそう出て来るわけもないことも薄々感じていて、そのことは
                私の教師生活においても同じことだったから。思い返してみれば、45年の間に
                「これは!」と思う学生は学生は5人。年齢差20才をもろともせずに私の弱点
                をズバリ指摘したO嬢、卒業制作で異なる椅子を3脚も作ったT君、学外生活に
                忙しくオートバイの師でもあったS君、二年間の在学中に幾度となく作品展を
                開いたI君、そして最初の授業の時に私が説明している最中に手を挙げて質問
                したM嬢、たった5人だ。平均して10年に一人の割合でしかない。

                 優秀な作品を作った学生、真面目でキチンとした仕事ぶりの学生、親しく
                した学生、いろいろいるけどさ、エピソードそれも特別際立ったエピソード
                (っていうか印象かな)を生み出せる学生となるとその数はまことに少ない。
                まぁ、結局は私の主観でしかないわけだけど。澤選手もそうした一人なんじゃ
                ないかと思うわけなのよ。よく10年に一人とか20年に一人なんて言われる
                けど、そんな傑出した人材がホイホイと生まれることはどう考えてもある
                わけがない。宮間選手もがんばってるんだろうけど、澤選手と比べれば
                いかにも小粒と感じられちゃうもんな。

                 私が教える学校はふつうの専門学校だから、格別優秀な学生が集まる
                わけではない。だから、私が言うところの傑物が入学するのは運みたいな
                もんだ。出会いは偶然を待つしかないってこと。女子サッカー界のこと
                よくわからないから間違った考えかも知れないけどさ、ひょっとして
                日本女子サッカー界もそんな選手が出て来るのは偶然でしかないのかも
                しれないと思っちまうんだ。どこの学校、会社、組織だって優れた人材を
                求めているんだろうけど、方法は?ということになると待つしかないの
                でしょうか。

                 果たして傑出した人材を育てることなんか出来るんだろうか。環境を
                整えることはできるだろう、的確なアドバイスを与える事は可能だけど
                肝心の傑物自身のココロを育てることは出来るんだろうか。私の学生の
                多くの場合は、ココロは元々生まれ持ったもので教えることは不可能とは
                言わないまでもかなりむずかしいという実感でね。そりゃ技術や知識を
                通じて学生自身の考え方や大袈裟に言わせてもらえば生き方みたいな
                ものまで話し合いアドバイスは出来るけど、それで学生自身が刺激を
                受けてココロの持ち方が変わるなんてことはあり得ないというのが正直
                なところなんだな。そこんとこノムさんに聞いてみたいもんだ。

                 それとね、ワールドカップで優勝しオリンピックでも二位だった
                なでしこがなんで急落してしまったのかも。いくらなんでも早すぎる
                でしょ、落ち方がさ。いくらスピードが求められると言ったってね。
                世代が変わるったってせいぜい10才程度でしょ。昔、ボーリングが隆盛
                し急落した後、また息を吹き返しているようだけど、そうなって単なる
                流行から文化に定着したって言ってた人がいたけど、ひょっとして
                サッカーも流行で文化になるまでには至っていないのかしら。そいじゃ
                スケートはどうなの? 野球はなんだかダラ下がりのようにも見えるけど、
                ラグビーの社会的位置は? と次々と疑問が湧き出て来て・・・・・。

                散らかった記事でなんだかなぁ〜・・・・・・・・な、店主でした。
                 

                哲学っちゃう?

                0
                   このところの当ブログ、更新が進んでいないことの理由はいかなるものや。
                  素人のこちとらの妄想は小さく飛躍することもなく、むろん膨らみも極小だい。
                  だから、日々出来する小さな出来事では書く事ができず、伝えたい書きたいと
                  思うようないささかな魅力的な出来事がなければ一向に筆が進まないんだわさ。
                  自分が読みたいと思うような内容でなければ書けないのはプロの作家も同じ
                  なのかもしれないけどさ。

                   そんな月並みなる日常の中、ふと思い立って図書館からカセットブックを
                  借りて聴いている。

                   20世紀最大の哲学者の呼び名も高きハイデガー。これまで何度も挑戦して
                  門前で蹴散らかされたアタイ、性懲りもなく再挑戦。本はムリだとわかってる、
                  せめて講演で学ぼうと。およそ26年前に出版されたこのカセット、当時購入
                  して聴いたことはある。筒井康隆氏56才、アタイは31才のみぎり、あれから
                  幾星霜、アタイも少しは経験も積んだし深く理解できるのではないだろうか。

                   そう思って聴いているけど、当時聴いて理解したことから一向に深まりは
                  なく、なんてこったいアホっぷりはまったく修正しとらんじゃないか、ってね。
                  思うワケですわ。


                   こんなにもわかりやすく講義されているにもかかわらず肝心な部分になると
                  脳ミソは固まり講義内容はスルーしてまう。理解を求めるココロと内容を受信
                  できる我が装置との乖離、好きになる異性と合う異性とは違う! ついそんな
                  ことを思いだしてしまうワケだ。

                   ハイデガーは、師フッサールと分かれた一因は「不安」とのこと。不安は
                  誰にでもまれに起きること、これはわかる。なぜ不安になるかというと、
                  自分がいつかは死ぬ存在であることを意識するからだと、これもOK。不安は
                  対象がわからないものがだんだんと近づいてくること、対象が分かっている
                  場合は「おそれ」であり、台風とかヤクザとかが近づいてくるときに使うもの、
                  これも大丈夫よく理解出来る。ちなみに見知っているものが突然現れた場合は
                  「驚愕」で、見た事がないものが現れたときは「戦慄」、突然の現れた場合は
                  「仰天」、そしてその反応は「狼狽(ろうばい)」。ここらへんはなるほどね
                  そういうことかい、と理解するのにな〜んの問題もない。

                   自分が死ぬ事をあらかじめ理解することを「先駆的了解」といい、そのこと
                  が分かれば、死の不安から解き放たれて、今なにをすべきかがわかる。それは
                  誰にでも出来る事で、その手助けとなるのが「良心」だとのこと。不安な心理
                  を活用し良心を生み出す、そしてその良心を支えにして、死を事前に理解し
                  今なすべきことがわかって、ことを成す。ここらへんから怪しくなるんだな、
                  これがさ。どうにもここらへんがアタイの限界の最前線って感じなんだ。

                   講演の元は、ハイデガーの著書「存在と時間」。人間にとって最大の問題
                  「死」についてのあれこれだ、と思う。ここで疑問なのは「死」について
                  考えるなんてことが学問といえるもんなのかどうかってこと。宇宙のことは
                  天文学だし、算数のとことん追求が数学で、お金のことは経済学だし、どれも
                  専門ジャンルというかひとつの体系っていうか、そういうものがあるでしょ。
                  少なくともアタイにはそう思えるんだわさ。哲学って用語は西洋文化がなだれ
                  込んできたときに日本語を当てはめたものと聞いた事がある。英語(ドイツ
                  語?)にふさわしい言葉がなかったから大体こんなもんだろうと。

                   学というからには学問ってことでしょ。ハイデガーの師匠フッサールは
                  「解釈学」と言われたようだし「実存主義」なんてものもある。実存主義は
                  要するに人間の可能性を論考したこととも言われるけど、つまりは哲学って
                  のは人間に関する学問のことなのかな? 

                   ここで広辞苑。philosophia(ギリシャ語)は愛智の意。西周(にしあまね)
                  は賢哲を希求する意味の周茂叔の文に基づき希哲学と訳し、それが哲学という
                  訳語に定着した。古代ギリシャでは学問一般を意味し、のち諸科学の分化・
                  独立によって哲学は世界・人生の根本原理を取り扱う学問となるが、単なる
                  体験の表現や宗教ではなく、あくまで理性的認識として学的性格をもつ。


                   なるほどね、やっぱりね、アタイの疑問は当たらずとも遠からず、的外れ
                  ではなかったんだな。あ〜ぁスッキリした。モヤモヤ解消で仕事仕事、
                  これから青色申告の領収書を整理しなくてはならんのだ。

                  ついでに買ってしまったカセットブック・・・・・・な、店主でした。
                   

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