鬱屈からの脱出
発端は、この写真だったの。
観てみたいと思ってね。18年前の卒業生・星野裕也クンの作品展、京都で
開催されてることを知人のfacebookで知り、昨日大枚払ってわざわざ日帰り
してきたワケだ。
この星野クン、在校中は優れた作品を作り、飛騨高山学生コンペで受賞も。
私の記憶にもクッキリなれど、卒業したときに理由は忘れたけどなにか釈然と
しない気持ちがあって、その後つきあいはなかったんだわ。いい機会だ、決着
をつけちゃろ、そういう思いもあったわけ。
京都・泉涌寺。歴代の天皇家の菩提寺だ。
境内は広く、こんな道路も堂々で。
多くの塔頭もあり、その中にはこんな玄関?も。いや〜直球京都だな。
案内に従って目的地へ。これも境内、住宅もあるでよ。
めざす写真展めっけ。
泉涌寺の塔頭のひとつ、悲田院。これが会場。それにしても京都ってのは
人知れずこんな名刹がいくらでもあるんだろ。懐が深いっちゅうか・・・・。
本堂の中が会場、その入口だ。
入ってみると、♬今はもう秋? 誰もいない会場・・・・。本堂四周を
グルリな写真。展示はかなりのもの、陰影礼賛、期待通り。KG+とは京都
市内各所での写真展。18年ぶりの再会、話す事はいくらでもある。会場で
立ち話、座って話し、場所を移してまた話す。18年の年月は瞬間消失、
一週間前に会ったばかりみたいな感じなんだわさ。
聞けば写真を生業とするようになったのがここ1〜2年のことで、それまで
は家具の仕事をしてたとか、なんだいちゃんとデザインの仕事してたのかい、
そんならアタイの釈然としない感はいったいなんだったのか、どうなって
いるんだ、責任者出てこい!
人はそう変われない、相変わらずマジメな星野クン、展示について書いて
ほしい、ということで記事してるんだけど、読んでるのかなぁコレ。紙に
印刷、それを黒角棒で上下挟んで掛け軸仕様、前面床一列に黒箱に納められた
蛍光灯、まるで裏から照明が当てられているような錯覚で効果大。誰が考えても
納得の展示だ。これは、彼の学生時代の作品にも相通じると偉そうに一講釈
したりして。そして、ふと思い出すのはこの写真、
ウィーン応用美術館。トーネットの曲木椅子の展示、正面通路はシルエット、
裏に回れば実物が、なんてこったい、スバラシイんだ、これが。彼の地の
デザイン力がアタイに迫り来る来るゥ、てなもんだ。星野クンの展示を観てコレ
を思い出したと思ってくんねえ。展示もデザインのうちだもんな、少ない予算で
作品の良さを観客に理解していただくアイデアは、作者の能力である。星野クン
の展示も同様で、家具デザインに従事していた十数年間のあれこれがちゃんと
蓄積されていることの証だとアタイは思っていまっせ。
なんとなくあれこれ話していたら、お茶をどうぞ、なんて言われてさ、別室に。
悲田院は煎茶道の本家らしく、4人でお茶をいただく。こりゃ困った、改まった
席は苦手だし、なによりも沈黙が耐えられないアッシ、数分も耐えられず、話し
ちゃいけないの? いいの! ってことで遠慮なく会話継続に励む。師匠は年配
の和服美嬢、年上だから言葉遣いに気を配る。他は年下だからぞんざいな口調で
イイとかなんとか言ったら、隣席の男性が同い年ですよ、と言われ「マジで!」、
車は急には止まれない口調も急には改められず、テキトーにごまかしつつ柏餅を
パクリ。
そのまま帰るのもなんだなぁと、調べておいた美術館にバスでGO!。
地下にある小体な美術館。利休、織部、遠州、茶道界に輝く三星であれば
行かずばなるまい。そして、利休の棗(なつめ)に釘付けとなる。よくみる形は
こういうもの。
しかしこれは違うんだ。丸みを帯びたかたちではなくスッキリキッチリな角。
真横から見れば直径と高さが同じ正方形、見た目はちょいと低く感じられる。
蓋の合わせ目は高さの真ん中で、これを中次というらしい。微妙な表面処理は
漆なんだろ。テカリもせずくすんでもいない。自然感あふれる茶室茶器の中に
あって硬質無機質な真っ黒小箱は精彩を放つ。そのセンスに今さらながら脱帽。
思わず、
イスラム教の聖地メッカの真ん中にある黒箱を思い出してしまった。まるで
関係ない二つだけどアタイの心で見事に合体しちゃうのよね。なんとなく
字余りなエンディングですまんのう。
鬱屈なココロは多少は解放されたのか?・・・・・・・・な、店主でした。
観てみたいと思ってね。18年前の卒業生・星野裕也クンの作品展、京都で
開催されてることを知人のfacebookで知り、昨日大枚払ってわざわざ日帰り
してきたワケだ。
この星野クン、在校中は優れた作品を作り、飛騨高山学生コンペで受賞も。
私の記憶にもクッキリなれど、卒業したときに理由は忘れたけどなにか釈然と
しない気持ちがあって、その後つきあいはなかったんだわ。いい機会だ、決着
をつけちゃろ、そういう思いもあったわけ。
京都・泉涌寺。歴代の天皇家の菩提寺だ。
境内は広く、こんな道路も堂々で。
多くの塔頭もあり、その中にはこんな玄関?も。いや〜直球京都だな。
案内に従って目的地へ。これも境内、住宅もあるでよ。
めざす写真展めっけ。
泉涌寺の塔頭のひとつ、悲田院。これが会場。それにしても京都ってのは
人知れずこんな名刹がいくらでもあるんだろ。懐が深いっちゅうか・・・・。
本堂の中が会場、その入口だ。
入ってみると、♬今はもう秋? 誰もいない会場・・・・。本堂四周を
グルリな写真。展示はかなりのもの、陰影礼賛、期待通り。KG+とは京都
市内各所での写真展。18年ぶりの再会、話す事はいくらでもある。会場で
立ち話、座って話し、場所を移してまた話す。18年の年月は瞬間消失、
一週間前に会ったばかりみたいな感じなんだわさ。
聞けば写真を生業とするようになったのがここ1〜2年のことで、それまで
は家具の仕事をしてたとか、なんだいちゃんとデザインの仕事してたのかい、
そんならアタイの釈然としない感はいったいなんだったのか、どうなって
いるんだ、責任者出てこい!
人はそう変われない、相変わらずマジメな星野クン、展示について書いて
ほしい、ということで記事してるんだけど、読んでるのかなぁコレ。紙に
印刷、それを黒角棒で上下挟んで掛け軸仕様、前面床一列に黒箱に納められた
蛍光灯、まるで裏から照明が当てられているような錯覚で効果大。誰が考えても
納得の展示だ。これは、彼の学生時代の作品にも相通じると偉そうに一講釈
したりして。そして、ふと思い出すのはこの写真、
ウィーン応用美術館。トーネットの曲木椅子の展示、正面通路はシルエット、
裏に回れば実物が、なんてこったい、スバラシイんだ、これが。彼の地の
デザイン力がアタイに迫り来る来るゥ、てなもんだ。星野クンの展示を観てコレ
を思い出したと思ってくんねえ。展示もデザインのうちだもんな、少ない予算で
作品の良さを観客に理解していただくアイデアは、作者の能力である。星野クン
の展示も同様で、家具デザインに従事していた十数年間のあれこれがちゃんと
蓄積されていることの証だとアタイは思っていまっせ。
なんとなくあれこれ話していたら、お茶をどうぞ、なんて言われてさ、別室に。
悲田院は煎茶道の本家らしく、4人でお茶をいただく。こりゃ困った、改まった
席は苦手だし、なによりも沈黙が耐えられないアッシ、数分も耐えられず、話し
ちゃいけないの? いいの! ってことで遠慮なく会話継続に励む。師匠は年配
の和服美嬢、年上だから言葉遣いに気を配る。他は年下だからぞんざいな口調で
イイとかなんとか言ったら、隣席の男性が同い年ですよ、と言われ「マジで!」、
車は急には止まれない口調も急には改められず、テキトーにごまかしつつ柏餅を
パクリ。
そのまま帰るのもなんだなぁと、調べておいた美術館にバスでGO!。
地下にある小体な美術館。利休、織部、遠州、茶道界に輝く三星であれば
行かずばなるまい。そして、利休の棗(なつめ)に釘付けとなる。よくみる形は
こういうもの。
しかしこれは違うんだ。丸みを帯びたかたちではなくスッキリキッチリな角。
真横から見れば直径と高さが同じ正方形、見た目はちょいと低く感じられる。
蓋の合わせ目は高さの真ん中で、これを中次というらしい。微妙な表面処理は
漆なんだろ。テカリもせずくすんでもいない。自然感あふれる茶室茶器の中に
あって硬質無機質な真っ黒小箱は精彩を放つ。そのセンスに今さらながら脱帽。
思わず、
イスラム教の聖地メッカの真ん中にある黒箱を思い出してしまった。まるで
関係ない二つだけどアタイの心で見事に合体しちゃうのよね。なんとなく
字余りなエンディングですまんのう。
鬱屈なココロは多少は解放されたのか?・・・・・・・・な、店主でした。
- 2016.04.30 Saturday
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- 11:50
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- by factio