思い出せないもどかしさ

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     過日、当店にオーディオアンプの問い合わせがあった。横浜在住の方から

    愛用のアンプがちゃんと直る?、その方法と金額について。聞けば、ネット

    オークションで入手したヤマハ B-1を、レストアしてもらったら変な音に

    なって戻ってきた。大枚払ってレストアしたけど、戻って来たのは明らかに

    違う音でがっかり。そんな経験をすれば誰だって疑い深くもなることは

    理解出来る。ちゃんとした音になるならば、レストアしたいけど、ちゃんと

    した音になるのかどうかが不安、というわけだ。そして、あれこれ調べたん

    だろう。そして当店に辿り着いたということなんだ。

     

     う〜む、B-1かい。それが私の第一印象。稀代の名アンプ、重さも発熱も

    一級品だ。むろんレストア代金も。☎でお話を伺い、ま、一度、当地へ来て

    詳しいお話を伺いましょ、私のオーディオを聴けるし、聴けばレストアして

    くれるmazdaluce3000氏の仕事ぶりも多少はわかるかもしれない。私が

    聴いているアンプはすべて氏がレストアしてくれたもんだから。☎の印象

    では、来ないかもしれないな、と思ってたけど案に相違して日を置かずして

    お運びになった。こりゃかなり切迫してるな、我慢しきれないんだろうな、

    と思ったアタイ。

     

     来訪していただいてあれこれ話し、聴きで二時間、結局は、氏の工房に

    行くのが一番の早道じゃん、B-1を持ち込んでざっと点検してもらえれば

    見通しがつくのと違う?。という展開の末、先週の土曜日、横浜に立ち寄り

    B-1を積み込んで、そのまま横須賀へ。

     氏を含めての三者面談、状況と事情の理解を深めることに努め、B-1の

    レストアのポイントや部品交換の考え方などの授業、一息ついて作業台の

    上にB-1をセットし、点検の開始だ。

     

     まずは周囲を目視点検、裏のネジがおかしい、前の持ち主が施した修理の

    痕跡から推理ことに始まり、いよいよ上部の蓋を外して基盤の点検に移る。

    前後に4枚、左右に二枚の基盤が屹立してる。念には念を入れ細心の注意を

    払って、微量な信号を入れて測定器で基盤をチェックする。これは生きてる、

    これはまぁまぁ、これが一番ダメ、という具合。傍らで聞いているお客さん

    は気が気じゃないんだろう。まるで、定期検診の報告を医者から聞いている

    ようなもんだ。その両者のやりとりを聞いてるアッシは、赤の他人まったく

    の野次馬だから呑気なもんだ。そして、いい大人が三人角付き合わせて相談

    してる図の面白さに声に出して笑ってしまいました。だって、可笑しいんだ

    もん。怪訝な顔で振り返るお客さん、そこ笑うとこ? みたいにね。

     

     まずはこのアンプの大問題であるところの大容量コンデンサーを交換

    せねばならない、これだけで10万円かかりまする。このコンデンサーの

    新品はすでにない、ならば代替え品となるが、これだけの大容量は

    いくつかの小容量を繋ぎ合わせるしか方法はなく、それも様々な問題は

    残る。一番いいのは同じサイズで元のコンデンサーよりも高品質なものが

    あればいい。ってことで探し求めて三千里、時間はかかったけどめっける

    ことができて、B-1のレストアを再開したという曰くつきの代物。

     コンデンサーを交換した後、残りはもっとも不良な基盤をレストアする。

    問題が少ないと思われる基盤はそのままに、それで一応B-1の音質は再現

    出来るだろう。一応、提示された予算内で出来る限りのレストアを行い、

    持ち帰って自室で試聴して、満足のゆく音であれば残りのレストアを着手

    する、となったんだわさ。

     

     なんたって古いアンプですから、元の音を聴いた事がある人はとても

    すくない。このお客さんだって新品を入手したわけじゃないからね。でも

    元の音がちゃんと再現させれいるのかどうかは当然気になります。でも、

    元の音を聴いたことはない、まったく雲をつかむような話が堂々巡り。

    お客さんの気持ちもわかる、レストアする氏の気持ちもわかる、でも核心

    となるところがきわめて曖昧模糊としている状況、実体のない音にココロ

    惹かれる一人としてのアッシ、それぞれのお心内は重々お察し申し上げる

    のが正直な気持ちだ。

     

     で一応の点検が終わり、いよいよ電源を入れてみますか?となった。

    B-1愛好者の皆様が最も不安なのが出力トランジスタだ。V-FETと呼ばれる

    日本独自の部品。すでに代替え品はなく、これが壊れると即粗大ゴミと

    なる運命の部品。電源ONしたとたんV-FETが破損する可能性なきにしも

    あらず、「ONしていいですか?」とお客さんに同意を求め、さらに念を

    押し、さらに念を押す。そのやりともかなり面白く(なんたって野次馬

    ですから)口元のニヤニヤを消す事はできない。

     

     結局V-FETが破損していないことがわかり、重体なアンプではないことが

    判明して点検落着。もしV-FETが壊れていても代替え品はあるから、心配

    はないことは事前にわかっていたんだけどさ。

     ホッと一息、ソファに戻って氏のオーディオを聴きつつ雑談のひととき。

    流れてきたのはパソコンに入っていた曲、「ムム、コレ聴いたことがある!」

    ピンと来たのよ。演奏は押尾コータローだ。「LOVE STRINGS」。

     帰ってすぐにアマゾンで入手、きのうから聴き続けている。その8曲目

    「ニューシネマパラダイス」、曲は2つに分かれていて後半部のイントロに

    聞き覚えがあるんだ。とても短く、すぐに別のメロディになる。たしかに

    ニューシネマパラダイスではあるけど、この部分だけ違うとこで聴いた

    ことがある気がする。日本語の歌詞で唄われてたような気がする。あぁ、

    どこで聴いたんだろか。思い出せないんだ。勘違いかもしれないし。

    誰かに聞くこともできないし。気になるなぁ〜。

     

    結局このメロディだけで買ったCD、か・・・・・・な、店主でした。

     


    行方不明な肩痛

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       突然発生した肩痛、重い腰を持ち上げ歩いて数分の目蒲病院へ行った。工房の

      掃除中に手首をガラス片でグッサリ切り裂いて以来だ。問診、レントゲンの後、

      骨には異常はない、ちょっと様子をみようと、渡された貼り薬?と痛み止め。

      帰って肩に貼り、しばらくすると痛みは霧が晴れるようにどっかに行って、今朝

      はほとんど行方不明。はて、どこへ行ったのかのう??

       

       ともあれ、とりあえずではあるが痛みが消えたことはまことに喜ばしい。

      珈琲を飲みつつモーツァルト交響曲全集19CDを次々と聴いている。むろん、

      ホグウッド&エンシェントだ。一服しつつパソコンで一文を目にする。

       御歳で椅子に取りかかるは真っ当。協力したいです。
      巨匠ウェグナーにして、俺は職人で、デザイナーと呼ぶなと、晩年まで、老若

      男女、家族に試しては試作品の脚を切り詰めたり継ぎ足したりしていましたしね。

      ご紹介の写真の椅子は畳の上に置く仕様で、日本人としてこのタイプにはずっと

      興味を抱いてました。

       

       畏友T野井さんからの励ましのコメント。ウレシイなァ〜。話を聞いてくれる

      にしても相手によりけりでね、見ず知らずの人に通り一遍の励ましじゃなかなか

      ココロには響かないことよくあるじゃん。理解し合ってる方からであれば、

      まるでアタイのココロのヒダヒダに沁み渡るの如くでね。持つべきものは友、

      の言葉がすぅ〜っと浮かび上がるってもんだ。

       

       そもそも椅子にはなんの興味もないアタイ、なんたって家に椅子がないからさ、

      ぜ〜んぶ畳だもんな。日々の生活の中で椅子に座る経験が希少なアタイが椅子を

      デザインするなんざ愚の骨頂、意味がないでしょ。畳に座卓でご飯を食べ、

      おもむろに横になり、たまにゃ柱に足をもたれかける、しかも近時のホット

      カーペットに加え毛布がある、昔こたつ今はコレ、椅子じゃこんな贅沢は

      できない。そりゃ確かに仕事で椅子は使う、一杯飲もうかって時だって椅子は

      必要だ。でもさ、生活の中心にあるのかって聞かれれば、そりゃ違う。生活の

      中心は畳、がアタイのスタイルだ。

       

       とはいえ家具が好きで入ったデザインの世界で、王座に君臨する椅子は

      アルプス高峰のごとく屹立し、常にどっかから見下ろされているような気が

      していたことも事実でね。高峰の中でもひときわ高く輝いているのがハンス・

      ウェグナーであることは同感きわまりなし。技術や知識をひけらかすわけでも

      なく、有名になりたいお金をもうけたいなんて意識も微塵に感じられない、

      真面目に真摯にひたすらコツコツと椅子(他にもあるだろうけど)を作り

      続けた姿勢はまさに孤高の天才と呼びたい。

       

       彼の中で自然に湧き上がってきた椅子への思い、片や畳ばかりの生活で

      椅子なんかなくったって一向に困らないアタイ、そのことが大きな障壁と

      なって、椅子がデザインできなくてほぼ50年経っちまった。憧れるけど、

      好きだけど、アプローチがわからない。まるで着物に憧れるアフリカの

      部族民みたいだ。

       

       生活の中で馴染みがないから、歴史もないし伝統だって理解の外だ。

      写真で見てイイなと思ったって、そりゃ姿かたちだけでさ、本質みたいな

      部分は到底わかるわきゃない。椅子の構造の合理性にしたところで、

      構造の作り方だけを取り出しただけであって、そこに至った文化的な背景

      までは思いは及ばない。っちゅうか、つまりはワカラナイのでありまする。

      そんなココロで椅子を作ろうと思ったって換骨奪胎みたいな似て非なる

      代物しか生まれないことはわかりきったことだ。

       

       世に言う名作椅子にはな〜んの興味もないコチトラ、ましてやそれを

      模作することに意味を見出すことなんかアタイのチン恋頭脳にはムリも

      ムリ、大無理だもん。確かに名作と呼ばれるからにはなんらか突出した

      意義とか魅力はある。いわゆるスタンダードだもんな。映画にしたって

      音楽にしたってそれは共通してる。でもさいくらモーツァルトに魅力を

      感じたってあっちはヨーロッパこっちは日本、音階もちがうしメロディ

      や楽器だって違う、なにからなにまで違うんだからね。明治大正昭和の

      古今の音楽家たちが呻吟したのも西洋と日本の折り合いの付け方なん

      じゃなかったのかしら。

       

       そこで思い出すのが竹中労。彼の説の中に

      「ひばりの歌の本筋は中山晋平野口雨情にあり、さらに晋平雨情の行き

      着く先は紀貫之の土佐日記」がある。

       晋平は中山、雨情は野口だ。彼らが生み出した日本の歌謡は、今じゃ

      誰も見向きもしないような感じだけど、日本人の心の底流として静かに

      受け継がれているんじゃなかろうか。決してアナクロニズムとは思い

      ませんよアタイは。そのことは以前ブログでも書いたけどさ。話は飛躍

      します。高峰モーツァルトに比肩する日本の音楽が晋平雨情と仮定して、

      ウェグナーに比肩する椅子(出来るかどうかわかんないけど)はどんな

      ものなのかをイメージ出来るヒントとして浮かび上がるのはYMOだ。

       

       YMOといえばテクノポップ、いわゆる電子音楽の草分けだ。今までに

      まったくなかった新しい技術を持ち込んでの楽曲はまさに日本的である

      ことの証左でもある。それまでのギター主流のポップミュージックとは

      まったく異なる手法は後進国としての日本ならではのアプローチである

      とアタイは考えるのよ。話は飛躍する・ツー。アタイが考える椅子に

      とってテクノに相当する部分は、座面と背もたれが幾段階かに変化する

      ということにある。椅子は単機能で、一つの椅子は一つの用途と限定

      されているのが多々であります。子供から大人まで使える椅子はたしか

      北欧で作られていたけど、それは心地よいものとはいえないとT本さん

      が言ってた。

       

       座面の高さと角度が変わり、背もたれの高さや角度も変わる、さらに

      肘掛けだって変わります。こんな奇妙とも言える椅子を考えるのは、

      名作椅子の類いにことさら興味を持つ事はなく、椅子に馴染みの薄い

      アタイぐらいしかいないんじゃないか? これならアタイだって

      充分すぎるほどの興味は湧く。テクノポップと自在に座り心地が変化

      する椅子、アタイにとっちゃとても似ているイメージなんだわさ。

      きっと、これならウェグナーだって「どれどれ、見てみようか」

      「ふ〜ん、こうなってるのか」「おもしろいね」とかなんとか言って

      くれそうな気がする。別にウェグナーにおもねるわけじゃないけどさ。

       

       相変わらず長い。肩痛からの病み上がり、短期リハビリだからさ、

      くどいけど時間はあるから、ついついのブログなんだ。さらに畏友

      からのコメントがあったもんで、これからはT野井さんとのしばしの

      往復書簡みたいな感じになることご了承くだされたし。

       座面。俗に座位基準点はこのように(●)高低変化します。単に高低の

      変化だけだからこれはさほどむずかしい問題ではない。

       背もたれ。基準となる●は高さと左右がけっこう変化します。左右の

      振れ巾をクリアしようとすれば巾の広い板を使うか細い材を格子状に

      並べるのがよかろうと愚考しているのですが・・・・・・・。

       さらに肘掛け。角度なしの水平が基本。しかし高さは変えなければ

      なりませぬ。座面前方のこの位置で固定し、後方は背もたれ部分あたりで、

      二カ所で固定すれば肘掛けの固定は安定すると愚考。

       座面、背もたれ、肘掛けの三カ所が自在に変化できる椅子、それに

      対応出来ると思われる椅子がコレ。開発機密と思ったけど、こんなもんを

      真似しようなんて人いないだろと高を括って公開。前回の記事で、

       ホフマンの椅子を紹介したけど、上の松村勝男さんの椅子との共通点は

      多い。主構造は、いわゆる縦格子だ。どっちがミメーシスしたってこと

      じゃない。シンプルな構造は普遍的なもんだ。F.R.ライトだって多用してた。

       

       この構造なら座面が上下する軸は格子の隙き間でOK。問題は背もたれ。

      上下左右幅広く点在する背もたれの軸を格子の棒部分でカバーすることは

      できませぬ。棒の中心や端っこや格子の間の空間部分に位置する事もある。

      それらをクリアしようとすると格子の間隔がバラバラになってしまうんだ。

       

       むろん座面の高さの変化=椅子の機能やかたちのバランスの変化=本椅子

      としてのバランスもある。さらに、座板、背もたれ、肘掛けは格子状の

      構造体にボルトオンされるから心配ないとしても、両側の格子構造体を

      つなぎとめる貫(ぬき)が不可欠。座板、背もたれ、肘掛けを取り去っても

      自立できるようにしなければならない。

       

       T野井さんご指摘の「畳に置く仕様」とは、たしか「畳ずり」と称される

      と記憶しています。以前、ウェグナーチェアを愛用されている方のテーブル

      をデザインして納めたときに、床に点々と椅子の先端の脚端痕が残って

      いることを目にしました。ウェグナーの椅子といえども床材はかなりの硬さ

      が要求されるようです。また、痕が残ること覚悟の上で使用するべきだと

      思います。昨今の硬質塩ビの床材ならば大丈夫なのかもしませんが。対応策

      としてはただ一つ、床に接する脚端部の面積を大きくするしかありません。

      つまりは、床に接するのは棒ではなく板になります。世界の中で柔らかい

      床材の最たるものは畳でしょうから、座椅子のようにするのが妥当では

      ないでしょうか。そのことを充分考えたからこそ松村勝男さんはあのような

      畳ずりにしたと私は考えます。

       

       ただし、私にとって松村さんの椅子に物足りない感じを抱くのも事実です。

      その原因は、近年の私がインドに大きな興味を抱いているからです。特に

      服、豊かな装飾性と色彩が私を惹き付けてやみません。そんな私の考えを

      見事に表現しているものとして

       レバノンのBOKJAがあります。当地の民族衣装をパッチワークして

      作られた一連の椅子や家具たちです。過剰ともいえる装飾性、このような

      椅子を置く部屋はどのようなものか? そんな考えを吹き飛ばしてしまう

      ほどの魅力を感じてしまいます。ウ〜む、困ったもんだ。もちろん、

      こんな感じをそのまま私が考える椅子に取り込む事はできません。

      あくまでもイメージです。これを理解して解釈し直さなければならない

      ことはむろんのことです。

       

       長過ぎるな〜文章。

       

       ここで考えたのはパッチワーク。前回記事にした井口材木店で、今回の

      椅子に使う材料を聞いたら、いろんな木材が在庫としてあると。ならば

      かたちや構造は決めた上でいろんな木材を使ったらどうかって考えたの。

      さらに厚みも変えて凸凹(といっても多分数ミリの範囲内)変化のある

      ものしたらどうか、と。従来の椅子(や家具)たちの多くは単一の素材

      で作られているでしょ。まとまっているという感じです。でもさ、

      まとまっているということはホントにいいことなのか魅力的なのかって

      いうことを考えてしまったんですわ。

       

       服装にしたって決まっているということが時代に即しているとは

      思えないんだよね。ブランド服と古着を自分なりに自由に組み合わせる

      ことが今なんじゃないかと思うんだ。上から下までブランド服でキメル

      ことはダサイ、私はそう思う。組み合わせこそが着る人の個性ってこと。

      保守的な家具(特に椅子)の世界にもそろそろそんな考えを導入しても

      いいんじゃないのかな? な〜んてね

       

      どうですT野井さん、一緒にやってみますか?・・・な、店主でした。

       


      経巡った末の再会もある

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         肩が痛いんだ。いやもうまったくの話。発症して5日めか、やむなく数十年

        ぶりで病院に行く決心。最初は肩だと思ってたら、どうやらリンパ線らしい。

        なもんで、一切の仕事は放置され、三度の食事も弁当と成り果てる有様。いつか

        来るとは思っていたけど今日だったのか、な句があったけど同じような状況に

        陥って大きく頷くアタイだ。右肩が痛い、んでやむなくブログを書くしかない

        ときたもんだ。

         

         写真が薄い! なんせ色鉛筆で彩色したからな。手元にないんだもん、

        くっきり彩色道具がさ。昔ならカラートーンだけど、今あるのかな? 

        エッヘン! コレは原寸図と申してな、椅子を実際の大きさで描いたもんだ。

        コレ書き上げた晩から痛くなった、アタイにとっちゃ曰くつきの呪われた

        図面とでもいいまひょうか?

         手始めに暫定的な図面を描いて実際の椅子を作った。前にも書いたけど、

        この椅子は私が注文する一人用ソファのサイズを確認するためのもんで

        あって、あくまでもソファを作る過程で必要な道具なの。でね、これを

        作ってもらうT本さんに見せたら「いいね」とおだてられ、ならばちゃんと

        作って差し上げることになった。むろん、タダです、ハイ!。

         椅子を作るT本さん、依頼されたお客さんに座り心地を確認してもらえる

        道具として役に立つんじゃないかと思ってね。

         椅子はいろいろある。いろいろ程度によって座面と背もたれに角度がつくのは

        当たり前。座面の高低はこのハンドルで調整しちゃおう、こんな具合になる。

        まずは試作だから握りの無骨さは我慢してくんろ。緩めて上げ下げして別の

        一カ所でも固定して角度を決める、とここまでは誰が考えたってこうなるしか

        ないだろ。さてと、差し上げるも一個を作る際にこの固定部分の正確なサイズが必要と

        なり、結果として原寸図を書かないとならぬことになったワケだ。

         

         T本さんに見せてる途中にひらめいたんだ。彼は、あくまでもこの椅子

        (とりあえず寸法君と命名)は、注文された椅子を作る際に寸法角度を確認

        するための道具と考えてるけど、せっかく作るんなら商品に出来ないかなと

        アタイは考えたんだわさ。まぁ、売れるあてなどないけどさ、商品ごっこ

        メーカーごっこも面白いんじゃない、ってね。数十個なんか作れないけど、

        数個なら出来るかも、いくつか作ってファクティオに展示して、DM作って

        各方面にばらまいて、釣りじゃないけどアタリを待つのココロ。それって

        面白そう。

         

         でね、すかさず井口材木店に赴く、適価な材料の相談だ。この店、大量な

        家具材の在庫を持つ希少な材木屋さん。厚さ27ミリの板ってある?と聞けば、

        ありますよいろいろ、即答してくれる気持ちの良さ。値段も即答、厚さ27ミリ

        巾120ミリ長さ2.4mでおよそ2500円程度。パッチワークのように数種の

        木材を組み合わせてもいいかもしれない、なんてこと考えつつ帰る。

         

         材料はある、作ってくれる人もいる、置ける店もある。お金はアタイの年金

        でなんとかなるんじゃないか。あとは椅子のデザインを考えればよろしい。

        それはアタイの役割だ。原寸図を書き始めるまでにこんな経緯があったのよ。

         原寸図をほぼ書き終えて、待てよ? これ松村さんの椅子に似てるじゃん!

        松村さんとは松村勝男さんのことだ。20代のアタイが強く惹かれた椅子を

        デザインしてた方、まったくもって仰ぎ見る存在。もう50年も経ったんだな。

        あれからいろいろあって、68才で再会するとは思ってもみなかったっす。

         

         氏の椅子が掲載されている冊子あったけど、もうないもんな。ネットで

        調べたら「松村勝男の家具」を発見、なんと一万円。う〜む。しばし考え

        見るだけ見ようと書店に直行。

         悩んだ末に買っちまったぜ。1992年だから25年前か。

         端正でシャープで日本的な佇まいの椅子、当時アタイはこれにまいって

        しまったんだ。今でもその気持ちは少なからずある。なつかしい気持ちも多少。

        これらの椅子と私がデザインしようと画策する椅子には共通する部分が多い。

        さて、これをどう組み込もうか?

         

         記事は続くよどこまでも。なんせ肩痛くてやることないからな。病院に

        行かなくちゃならないんだけど・・・・・・・・・・・。

         

         すでにアタイはミメーシスなる言葉を知っている。20代のアタイとは大きく

        異なる。なんたってあれから50年だもんな。直訳すれば「模倣」、芸術上の

        考え方で、たしか放送大学で知ったんだ。かのモーツァルトだってバッハの

        音楽は知ってたし、影響も受けた。影響ってのは模倣もあったに違いない。

        アタイは松村勝男さんの椅子を模倣するってこと。本質を理解して私なりに

        解釈し直す、それをパクリなんて言う方もいるだろうけど、そうでは

        ありませぬノダ。

         

         松村さんの家具から紹介できない椅子もある。なんで? と言われると

        困るんだけどさ、一応、ごっこだけど新商品の開発に関することだから秘密

        情報もあるってことで理解してくださいな。で、その椅子にも元があること

        に気付いたのよね。

         きっと松村さんコレ見たことあるんだろうな。だってとっても近しい印象

        だからさ。ミメーシスしたんだろ。さらに

         こんなものも。いずれもヨーゼフ・ホフマンだ。まるで今回のアタイの

        椅子にゃピッタリこん。立格子なら日本にだってあったし。待てよ?

        ホフマンさん日本建築を知ってた? そんなこたぁないだろ。でもなぁ、

        これまるっきり京都の町家じゃん。考え過ぎですかね。

         ホフマンにゃこんなヘンテコな球がついてるのもある。俗にホフマンボール

        と呼ばれる角隅を補強する部品だ。他に類をみないコレ、関係者であれば

        一目でそれとわかる逸品アイデア。もう誰もマネできない代物。まるで

        フレディ・マーキュリーのマイクみたいなもん。昔っからこの球、気になって

        いたんだ。でも、あまりにも特徴的だからさ、手も足も出なかったんだ。

        今のアタイ、この球をなんとかミメーシスできないもんかね。出来そうな

        気がするようなしないような・・・・・・・・・あぁ、出てこいアイデア。

         

        ってなこと言いつつ、病院に行きますか?・・・・な、店主でした。

         


        比べてわかる価値もある

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           夕刊でコンサートを知り昨日聴きにゆきました。日増しに重い腰、なだめ

          すかして、とにかく家を出よう、行くか行かないかは途中の気分次第と、まずは

          ヤンイーの本を借り換えようと図書館、あいや〜休館かい、しかたない返本だけ

          して、TUTAYAにDVDを返却して、その足で古着屋ZIRA。Dr.マーチンの靴が

          いい、オールドコーチのバッグもいい、2つ買えば2万円、でもな靴箱満杯

          だしバッグだって不要不急のもんだ、と後ろ髪引かれつつ店を出る。

           

           小腹が減った、回転な寿司をつまみつつ、コンサートに行ったもんかどうか。

          演目はモーツァルトのレクイエムだ。場所は東京オペラシティ、初台にある。

          新宿か〜、面倒だな、大嫌いな渋谷駅、東横線からJRに乗り換えるのになんで

          こんなに歩かにゃいかんのだ、が嫌いな理由。とはいえ、ここらで聴いとか

          ならんだろ、根拠のない切迫感、値段もS席5000円と適価だし。レクイエムは

          オーケストラに4人の独唱者と合唱団の三点セットだから、そうそう機会は

          ないだろ・・・・・・・・・なんだかんだで行く事にした。

           

           事前に☎して空席状況を確認、空いていますよ〜みたいなのんびりとした

          返事、大丈夫かいな?といささか不安になったけど、当日席はあり、一番前の

          5000円にする。舞台向かって右側だ。ここならチェロやコントラバスの真ん前、

          たっぷりと低音聴けるだろ、の思いと裏腹に団員が登壇すると目の前は第二

          バイオリンとそのまた右にトロンボーン3本とトランペットが二本、金管の

          音がやけに聴こえてバランス悪いことこの上もない。まいったな〜。でも

          決めたのはオレ様だしな、文句言って詮方なきこと。

           

           さらに照明があった。ふだん地下で聴く時は照明暗いんですよ。それが

          演奏会となればけっこうな明るさの中で演奏は進むわけだ。なんか恥ずかしい

          って感じ。演奏を聴くのに恥ずかしがる必要もない、それって変じゃない、

          と思われるかもしれないけど、アタイは恥ずかしい気持ちなんだからしかた

          ない。その感じは、SEXと似てる。日本人の多くは暗い中でSEXするのと

          違いますか? くらべて外人は明るい中でも平気でSEX。古い人間なアタイ

          だからそう思うのかもしれないけど。演奏している舞台を見ていると、

          まるでSEXを観覧しているような気持ちになって、最後まで奇妙な違和感が

          拭いされないんだ。困ったもんです。

           

           コンサートそのものは良かったですよ。全部知ってる曲ばかりだし、

          なんたって生演奏だからさ、ノイズ皆無(当たり前だ)、自然で雄大な

          低音、ストリングスの美高音に聴き惚れる。天才・モーツァルトの♬一つ

          一つが心に沁み入る。第一第二バイオリンの微妙なハーモニー、オーボエ

          とクラリネットの共演素晴らしく、まさにウットリとはこのことだ。

          やっぱし、え〜でんな〜、モーツァルトは。

           さらにこんなこともわかったような気がしたんだ。

           

           レクイエムは第二楽章の途中までがモーツァルトの作曲で、それ以降は

          誰かが代わりに作曲したんだ。なんたって書きながら死んじゃったからね。

          作曲なんかしたことないし出来ないから、あくまでも私なりの仮説でしか

          ないけどさ、作曲するときに始めの曲から少しずつ書き進めるなんてこと

          ないと思うの。私がデザインするときだって、いろんなアイデアが断片的

          に浮かんで、それらをまとめつつ最終的なかたちに仕上げるからさ。

          天才モーツァルトはどんな過程を経て曲を完成するのかわからない。

          ひょっとして曲ぜんぶ一気にイメージ出来ちゃうのかもね。でも、もし

          そうだとして浮かんだイメージを一気に書き留めることなんかできや

          しません。少しずつ書き進めるしかない。なんたって思い浮かぶのは

          一瞬だろうけど、それを書き留める手が追いつかないもんな。

           

           ってことはですよ、思い浮かんだ曲全部の一部分だけでもメモする

          のが当たり前なんじゃないかな。レクイエムは全部で13曲だ。これ全部

          が一気にイメージされるのかもしれないし、断片的なメロディが無数に

          浮かんでくるのかもしれません。どちらにしろ13曲全部のメロディや

          楽器編成なんかを一気にイメージして、一音一符忘れることなく最初

          から粛々と書き進めることなんか出来るのかね? いくら天才でも

          そんなことは出来ないだろう。

           

           ってことはですよ、断片的なメロディの膨大なメモがあって、死んだ

          のちに誰かがそれを元にして書き継ぐことは想像に難くない。メロディ

          は始めの部分もあるだろうし、途中も、最後もあるだろう。アイデア

          ってのはバラバラで、順序よくなんてことはあり得ません。手掛かりに

          なるメロディの断片さえあれば、そこそこの能力であれば書き続ける

          ことは出来るでしょう。一番の問題は魅力的な旋律や楽器編成の種

          としてのアイデアが生み出せるかどうかにかかっているのと違いまっか? 

          小さなヒントがもっとも大切で、生み出すのがムズカシイもんだと

          アタイは思うんだ。

           

           で、レクイエムを聴いてたら、ここは違うだろ、この部分は

          モーツァルトが書いたんだろ、聴きながらわかったような気になった

          んだ。あくまでも「わかったような」って感じだけどネ。だって

          曲の初めは魅力的な旋律だけど途中から飽きちゃうみたいになった

          ものもあったし。あのモーツァルトがこんなどうってことない旋律

          書くわきゃない、でも時に突然魅力的な旋律が出て来たりする、こりゃ

          一体どうしたわけ? って思ってしまうこと多々でね。今まで散々聴き

          続けたレクイエムだけど、薄々感じてたことを改めて明白に理解できた

          (あくまでもわかったような感じでしかないけど)ことは、今回

          の演奏会で得たステキなことだったんだわさ。

           

           しかし聴くうちに眠くなってくるんだ。曲はいい、楽器の音色もいい、

          なんで眠くなるんだ? 編成が大掛かりすぎなのか? あるいは指揮者の

          せいなのか? といってもこちとら素人だから、偉そうなことな〜んも

          言えないんだけど。

           

           訝しい気持ちを抱えながら帰宅。今、コーヒーを飲みながらレクイエムを

          聴き続けることすでに四回なアタイ、演奏はクリストファー・ホグウッド指揮、

          エンシェント室内管弦楽団&合唱団。ふ〜む、アタイやっぱこっちのほうが

          いいや。なんたって歯切れがいいもんな。ソプラノは愛するエマ・カークビー

          だしね。しかもですよ、舞台に向かって真ん中真っ正面の音を聴けることは、

          バランスだっていいに決まってる。そりゃ生演奏と比べればアタイのチン恋

          オーディオなんて比べようもない音だけど、そいでも地下で聴くほうがいい

          なぁ。

           

           昔、グレン・グールドが演奏会を嫌って録音に専念したことがアタマから

          離れない。五味康祐氏だって生演奏を信奉する風潮に異論を唱えたことも

          あった。生演奏をできるだけ忠実に再現するのがオーディオ(それがHifi)

          だと言う人もいた。そりゃ確かにそうだけど、だからといって家で聴く

          音楽よりも生で聴くほうが上位に来ることを金科玉条のごとく崇め奉る

          ことに些かならず疑問のココロなのだ。演奏会場で一番いい席で聴ける

          チャンスはそうそうないだろうし、演奏にミスは付きものだろう。そう

          考えるとグレン君五味ちゃんの考えに大きな共感を抱くことになる。

           

           趣味趣味の世界だから、他人の嗜好や志向を否定する気はまったく

          ありません。だから、アタイの考えを否定する方がいることは当たり前。

          今回の小さな経験でわかったことは、アタイのオーディオの価値の再認識。

          家でいつでも聴ける、録音の良否はあるだろうけど、座席は最良だし、

          好きな演奏者を次々と切り替えることも可、そんな当たり前なことが

          わかっただけでも幸多かれだ。

           

          価値は比べてこそわかることも多いだろうて・・・な、店主でした。

           


          スワっ! 事件か!!

          0

             二日前の昼ごろ、庭で二階の部屋あたりからのべつまくなしにけっこうな

            音量でラジオの音が聴こえてる、はて? と思ったんだわさ。ま、いいか、

            なんて思ってたんだけどね。それがいつまでも続いているんだ。おっかしいな? 

            見上げれば窓は閉まっているように見える、けど。音は明瞭に聴こえる、から

            きっと窓が少し開いてるんだろうな。気にはなるけど、昼間だし、と地下で

            仕事してたんだ。

             

            あたいの家は、離婚して以来、母親が営み始めた貸間業が主たる収入源で、

            平成元年に建て替えて後も続いているんだ。陽当たりの悪い一階にワシの

            家族が住んで二階三階がアパートになってる。その二階からラジオの音が

            鳴り響いてるというワケ。

             

             夕方になり、まだ鳴り続けているラジオ。おっかしいな?のココロは

            肥大し、ヤバイかもしれないに変わる。夜になっても一向に小さくなること

            もない音量でね、こりゃどう考えても変でしょ、なにか事件が起きたのか?

            あるいは起きつつあるのかと疑心暗鬼は膨らむばかり。まいったな〜、誰か

            殺されてるんじゃないのか。世間を騒がしている白石被告みたいのがさ、

            侵入しているのかもしれない。そんな暗雲がココロに迫って来る。家賃

            収入けっこうなことですね、なんて言われるけど、良いコトばかりじゃ

            ない、苦労もある、その最たるものが密室で起きる事件だ。

             

             それにしてもラジオが鳴り続ける理由がわからない。最初は、タイマーが

            作動して、無人の部屋でラジオがON? なんて考えたのよね。でも今どき

            タイマーでラジオのスイッチを入れるなんて御仁いないよな。それとも

            自然死? ラジオ聞きながら死んでいた、いやだいやだ、勘弁してよね。

            はたまた、侵入者に暴行され、死ぬ直前にラジオのスイッチONして「誰か

            助けてくれ」の合図なの?とか、縄で縛られて身動き出来ない、唯一動く

            指先でラジオを点けて「HELP ME!」なのか、と妄想は膨らんでやむことが

            ない。どうしても考えは悪い方向に流れてしまいます。

             

             夜中になっても止むことはない。朗々という感じなんだ。なにか事件勃発

            な考えで眠れないじゃんか。もっと早くなにか対応しときゃいいじゃんと

            言われるだろうけど、部屋は借り主のもんで大家といえどもそうそう立ち

            入ることはできないのよね。手をこまねいているわけじゃないけど、

            さりとて有効な手段を講じるアイデアも出なくって、まんじりとしない

            夜はふけるのでありまする。

             

             朝方5時に目が覚める。あたりはまだ暗く、静けさ増す中、ベッドの中で

            耳をすませばラジオは相変わらず堂々と鳴り続けてるのがかすかに聞こえる。

            部屋に行って確認してみるか? 部屋を開けるには誰か立ち会ってもらわなく

            ちゃならない。警察か? でもこんな時間にパトカーやってきて赤灯くるくる

            なんてことになったら近所の皆様起き出して、大変なことになる。さらにもし

            事件なんてことになったら新聞にゃ載るし野次馬は来るしTVのレポーターも

            押し掛けてくるだろ。アパートの住人はみんな引っ越して空室だらけに

            なっちゃう。いやですよ、そんなこと。と、アタイの小心はまるで海から

            上がった直後のチン個みたいに縮こまる。

             

             で、朝だ。ウトウト寝てしまったんだな。8時じゃん。明るくなったから、

            まずは呼び鈴押してドアノックしてみよう、と意を決して着替える。一人

            じゃ心もとないカミサンと一緒に目当ての部屋の前に立つ。ピンポン押す前に

            ドアに耳をくっつけてもラジオの音が聴こえないんだ。この時点でラジオの

            音源位置がわかりそうなもんだけど、そうはゆかない思い込み。てっきり

            ラジオは部屋の中にあると思い込んでるコチトラ、思い返してみれば

            情けない。

             

             まず角部屋、ベル押せども、出て来ない、しかたなくこわごわ合鍵で

            ドアを開けて、覗いてみればだれもいない。しかも無音。ふ〜む、不在か。

            となると隣りの部屋しかない。で、隣りの部屋のピンポン押す、出て来ない、

            しかたないから合鍵を差し込みそ〜っとドアを開けたそのときに内側から

            住人が出て来た。

            「ラジオの音がするんだけど?」

            と問えば、

            「ごめんなさい、言おうと思ったんだけど、ラジオ落としてしまったの」

            なんてこったい! 窓からラジオ落としてしまい、それが庇に引っ掛かり、

            寒くて暗い外で一人孤独に鳴り続けていたわけっすか!!

             

             一件落着、あ〜よかった。まさに胸をなで下ろすとはこのことだ。

            すぐに階下に直行、庇を見ればあるじゃあ〜りませんか、ラジオがさ。昔風の

            小さなトランジスタラジオは外にあったのね。だからあんな明瞭に聴こえて

            いたんだ。考えてみれば高音が際立つ音だった。一聴して鳥の声かと思った

            ほど。その時点でこりゃ小さなラジオだなと気が付くべきだったんだ。

            オーディオ愛好者のあたいならラジオの音でスピーカーの大小の判断が

            つくべきなんじゃないか。でもな、どう考えたって、そんときにゃそんな

            こと到底思えなかったよ。思いは及ばなかったし、余裕もなかったかんな。

             

             それにしてもラジオ落とすか!  なんで窓際にラジオ持参するんだ! 

            洗濯物ならわかりますよ、でもまさかラジオなんて!!  誰も思いつき

            っこない。かくして恐怖(マジで)のサスペンス満載な一夜は一気に

            終焉を迎えたのでありまする。

             

            大山鳴動、ちっこいラジオ一個の顛末・・・・・・な、店主でした。

             


            暖房を考える

            0

               相変わらず随分と大袈裟なタイトルだ。ふと思っただけなのにさ。

               

               当地ファクティオには2つの火鉢がある。一階の店には

               ちょっと大きめ丸火鉢。ちなみに後ろに控えしは開店時にネットで入手

              したオイルストーブ。スウェーデン製でVIKING。2筒式で触っても

              ぜんぜん熱くならず壁際ピッタシでも問題はない。

               丸火鉢だけじゃどうしようもない、ちょっとお茶でもが出来ませぬ。茶碗

              置くとこないもんね。ってことで、台を作り、ちゃぶ台を真ん中くり抜いて

              のやっつけ仕事で

               こうなった。んでもって地下には、

               小さな手炙り、角火鉢に脚を付けたコレがある。

               

               以前から2つの火鉢はさほど生かされることもなく存在していた。

              それをね、ここらでイッパツ活かしてやろうやないかと思ったんだ。

              あ、あっ、だからなんなんだ! なんて言わないでくんろ。

               

               火鉢の暖房力なんか秋に飛ぶ蚊みたいなもんでさ、ぐんぐん血を吸う力

              なんかほとんど残っていない弱々しさ。よく言えばほのかに感じる暖かさ、

              悪く言えば手間ばかりかかる厄介者、だ。小さな暖房力は、補う衣服を

              要求する、なんてね。薄着厳禁、要ちゃんちゃんこ。ここ数年来、そんな

              火鉢を時たま使用してたんだけど、それじゃイカン、旧きを訪れてみよう

              じゃないか、せっかくこちらへござれと誘われたにもかかわらず、なんの

              話も交わされずほっぽかれたんじゃかなわないもんな。と、火鉢の気持ち

              に心寄せてみたワケ。

               

               さてその火鉢だ。佇む風情はよろしい、炭火が爆ぜる音もけっこう、

              鉄瓶の湯が滾(たぎ)る音さらにいとをかし。しかしなんといっても

              手間がかかるんだ。真っ赤に熾(お)きた炭火でも、時が経てば灰に

              なる。気が付けばほとんど灰、炭火はきわめて微弱に成り果て、炭を

              足しても復活ならず、その繰り返しだ。一度消えてしまえば、再度着火

              せねばならない。今じゃガスがあるけど、昔にゃ紙を丸めてその上に

              付け木?を乗せて、火打石か? 今ならガスだ。だからさ、冬の暖房に

              君臨した炭火を、消してしまうことは大叱責だったんだろうな。

               

               でもさ仕事はしなくちゃならん、炭火を消す事なく仕事にも精を出す

              となると、これけっこう面倒なことでね。現にアタイだって隣りの工房で

              仕事して、気が付けば火が消えちょる! なんてこったいなコトが続き、

              ついついオイルヒーターのスイッチONとなって幾星霜。電気代だって

              かかるし、第一原発反対派のワシが電気に頼るのは矛盾してるだろ。

               

               炭火転向の理由はも一つ。家の近くに灯油と炭を売ってる店がある

              んだ。もちろん炭はそこで買う。ココ、ちょっと不思議な店でね。広い

              敷地に店も兼ねてる家があり、その前にはお地蔵さんらしき建物、奥に

              倉庫があって炭はそこから持ち出される。以前、聞いたら炭は岩手から

              取り寄せていて、友人仲間から「もうヤメれば、いまどき炭で商売には

              ならないでしょ」とか言われ続けてるんだ、とか。確かになぁ。でも

              店主さん、ヤメる気さらさらない様子充分で、だったら微力ながらワシ

              が売り上げ向上の一助になったろやないか、と思っての転向。

                岩手切炭6kgで1800円。炭は楢(なら)材。この金額が安いのか

              高いのか皆目見当がつかない。二袋買ってどれくらい持つのかこれから

              試してみてのことだ。

               

               考えてみれば、昔は大家族で子供から老人まで同じ屋根の下で暮らし

              てたな。畑を持ってる家なら子供から老人までまんべんなく仕事は

              ありましたよ。現にワシだって子供の時にゃ風呂焚きが仕事だったもん。

              老人の仕事の一つとして炭火の管理があったにちがいない。子供は学校

              親は仕事、日中ヒマなのは老人しかいないってことになれば、当然の

              ことなんじゃないか。

               

               炭火はチョコチョコいじってあげないとすぐ消えるやっかいな代物だ。

              初心者のワシは、どこをどういじれば消えないですむのかいまだに手探り

              状態。下から空気が抜けるように下にトンネルを作ったり、新しい炭を

              添えるタイミングや置き場所をそれなりに考えてやってみても消える時は

              あっけなく消えてしまう。ベテランから見れば「そうじゃない!」と

              叱られちゃうんだろうなと思いつつもコツがわからないんだもんな。

              唯一わかってきたことは、炭火が盛んに熾きてるときに新しい炭を追加

              してあげるとよさそう、ってことぐらいだ。ケチって火が弱まってきた

              ときに足しても時すでに遅し・・・・・・らしい。

               

              なんともちんまいコトでなんだかな〜・・・・・・な、店主でした。

               


              左稽古にビツクリ

              0

                 愛読している東京新聞、朝刊の「私の東京物語」に楊逸(ヤンイー)氏登場。

                1987年3月14日に初来日したときの出来事だ。

                 

                「成田空港から一時間ほどの空港バスで着いた新宿で、艶(あで)やかな電飾

                に染まる夕暮れに突っ立っていた私の目の前を、着物姿の女の子の一団が

                ゲラゲラと笑い声をあげながら通り過ぎていった、というものだった。卒業式

                帰りの女学生たちだったらしい」

                 物心つく前からの東京暮らしの私には生まれてこの方こんな体験はしたこと

                がないから、うらやましいなぁのココロ。中国から来て、見た事もない東京

                に大きな刺激を受けるなんてこと、今の私には到底ムリだもんな。

                 

                 「当時、『ファッション』という単語も知らなかった私だったが、外国に

                行くというので、さすがに人民服は違うだろうと、親に強請(ねだ)ってその

                頃中国で流行っていた袖とズボンに白いストライプが入った青のジャージーを

                買い、『格好を決め』浮き浮きして日本に飛び立ったのに、その時の気分は、

                己の墨色に酔いしれたイカが、熱帯魚の群れに迷い込んだようなものだった」

                 前文に続いてこの一文に笑いをこらえることはできない。内心大爆笑だ。

                といっても決してバカにしてるわけじゃぁない。そんときの彼女の驚きが

                面白い、っていうか面白すぎる。このジャージー、新宿の日本語学校への

                行き帰り、警官になんども尋問された後日談もある代物。なんたってこれ

                っきゃないんだからしかたない。けど怪しいと思う警官のココロもわかる、

                しかもですよ日本語全然まるっきりわからないっていうんだから、こりゃ

                まるで喜劇ですよ。しかたないから「すみません、すみません」(これしか

                知らないんだろ)を繰り返し、学生証を見せ、指で日本語学校の方向を指す

                のだった、と。

                 

                「なんだか色めいていて美しい、なんだか平穏で豊かそう、なんだかささやか

                ながら楽しそう、なんだか・・・・。とにかく空気に『幸せ』の匂いが漂い、

                それに魅せられた。言葉もわからず、両親が数十年かけて蓄えた日本円で

                三万円の貯金(ひと月生きられるかどうかもわからないような金額)しか

                持っていないのに、新しい別世界に来たのだと直感し、不思議と胸が膨らむ

                ・・・・・。」

                 けっこうな衝撃を受けつつも、その場の雰囲気を感じ取る感受性に感心。

                今になって考えてみればってことかもしれないけど。わかりやすい言葉で

                ありながら豊かな表現ができることは作家としての可能性はすでにあった

                と思ったりもするけど、考え過ぎかね。

                 ともあれ、若いってことは素晴らしいなぁ、つくづく思う。ここんとこ、

                こんなこと思うことに出会わないもん。知らないとはいえ、たった三万円

                持って外国に行ってみよう、行ってみたいと思う衝動はとても理解出来るし

                大きな共感を感じまする。漠然と将来の事考えはいるけど、それより

                なにより今やりたいことをやってみたい気持ちが優先しちゃうんだろな、

                きっと。こんな私だって、彼女ほどではないにしろ若いときにはいろんな

                ことやったもんな。これが将来なんかの役に立つだろうなんて気持ちは

                ほとんどなかった。すべては好奇心の赴くままにってことでしかない。

                 

                 近時、これほどの一文に出会ったことはなく、いっぺんに彼女のファンに

                なってしまった。1964年生まれっていうから53才か、会って飲みたいな。

                まずは、著書でも読みませう・・・・・・・な、店主でした。

                 

                 タイトルの「左稽古」がすっかり忘れられてる。困ったもんだ。いえね、

                まずは楊逸氏のことを前説でと思って書き始めたら止まらなくなって。

                左稽古っていうのは京都・井上流の踊りの教え方です。BSで観てこれまた

                ビックリな私にとっちゃの出来事でね。教えるときに、生徒と対面して

                教える井上流では、教師は鏡に映ったように左右逆の身振り手振りで

                なきゃイケナイ。げっ!と思ったアタイだ。そんなこと出来るんかいな!

                出来るんだな、これが。扇を持つ手の位置、高低の位置やひらひらな動き、

                これらすべて左右どちらでも出来るっていうんですから、驚くじゃ

                あ〜りませんか。観た場面では座って教えてたけど、もちろん立っても

                出来るんだろう。右に回るときにまったく同じように左にも回れるって

                ことなんだろ。なにも言われなければわからないけど、言われてよ〜く

                観ればオドロキですよ。

                 

                 ま、それ以外にもいろいろあってさ。唸りまくってのアタイ、伝統を

                守るっていうのはこういうことかい、改めて感じ入るのであった。

                チャンチャン。コレデオシマイ。

                 


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