無残発言に溜飲を下げる

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     キスしただけで、あんなに謝らなくちゃならないのかね。

     

     私のカミサン、若い時に学んだ美学校で、授業が終わっていつも通りの飲み会、

    そこで先生からキスされ、その後、たまたま用事があって欠席したところ、キス

    が原因かと先生が心配、そんなことを思い出してね。カミサンはほとんど忘れて

    いたのにさ。不快に敏感になることが文明化された人間の八つの大罪の一つと

    K・ローレンツは書いてるけど、まったくその通りだな。

     

    「異性にモテず、二枚目意識も持てない人はセクハラに走るしかない。気の毒と

    しか言いようがない」筒井康隆氏はブログで書いてる。そうだよな〜、と改めて

    思うアタイだ。付き合いたいと思う相手には、どっちかが先に仕掛けなけりゃ

    始まらない。仕掛けとしての言葉が過激か穏便か、むき出しか包装されているか

    の違いは、そりゃあるけど。仕掛けることそのものは悪くはない。立場の違いを

    利用したのが悪いとか言っても、そんじゃ、強い立場の人はナンパしちゃならぬ

    ってこと?

     

     財務次官のこの一件、アタイが思うコトは、セクハラの是非ではなく、脇が

    甘すぎることだ。記者にそんなこと言ったらヤバい感覚がないことに驚いた。

    いくら有名大学出て官僚道一筋を歩んできたといっても、いくら異性と付き合う

    チャンスがなくっても、ど素人じゃあるまいに、って感じ。仕掛けるにしても

    脈がありそうかなさそうかを判断しなくちゃならないなんてこと当たり前じゃん。

    今の世の中、ことごとくプロはいなくなって素人ばかりの世の中になる、と喝破

    した小沢昭一氏の予言がズバリ的中だもんなぁ。

     

     閑話休題、タイトルの無残だ。「役者」三國連太郎のビデオをようやく観た。

    役者人生五十年記念と題したVHS、けっこう高額だったけど値が下がって入手。

    緒形拳との対談が一番の見どころ。なにかで「どうして釣りバカ」に出演し続け

    てるの?を読んで、アタイもそう思ってたからさ、それを観たいと。巻頭の後、

    対談が始まる。緒形拳の笑顔がスバラシイ。役者として同じ心智の大先輩と対談

    できるよろこびに溢れている。後輩としてなんでも聞いてイイ、気概満載だ。

     

     「釣りバカ」になんで出演しつづけるのか、肝心なとこの前に黒澤明について

    厳しい意見が飛び出して、躍り上がって喜ぶアタイ。よう言うた、緒形拳よ。

    確かに43年「姿三四郎」からのおよそ20年間は素晴らしい作品目白押しだけど、

    「赤ひげ」以降はサッパリ良さがわからなかったアタイ、きっとアタイがアホ

    だからと思っていたけど、そうじゃない、作品は確実に劣化していたと言われ

    ちゃ喜ばないわけにはゆきませんや。溜飲を下げるとはまさにこのことだ。

     

     70「どですかでん」、80「影武者」、85「乱」、90「夢」、91「八月の

    狂詩曲」、93「まあだだよ」、これらすべて観ているけど、どこがいいのか

    サッパリでね。緒形拳曰く「映画を力で構築した黒澤監督、老いて力が失われ

    た様が無残ですね」とズバリ。そう思いませんか?と三國連太郎にツッコミを

    入れるんだ。それに答えて「そうですね」とボソリの三國連太郎。両者の反応

    を観ているだけでゾクゾクしてくるってもんだ。面白いなァ、面白すぎるゾ。

    まったく。あぁ、この瞬間がいつまでも続いてほしい。そんなこと思ったのは

    久しぶりだぞい。

     

     で、あの三國連太郎がなんで「釣りバカ」に出演し続けるのか? そのワケ

    やいかに?? 

     

    ま、それは観てのお楽しみヘッヘヘ・・・・・・・・・な、店主でした。

     


    noonは、どうか?

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       厭世的な気分に陥ることがたまにある。どうせ死ぬんだから、やってみよう!

      ならいいんだけど、どうせ死ぬんだから、なにやったって同じだ!となると

      どうにも困る。締め切りが迫ってる仕事は、どうにか進められるけど、不急の

      ことには気が向かず、放心の日々を送ることになるワケ。ほっときゃそのうち

      消え去るオーロラみたいなもんだけど、それまで気を逸らない術をあれこれ

      試しつつなんだわさ。

       

       そんな気分でも、音楽だけは聴き続けているアタイ、ふと思い立ってnoonの

      CD3枚も買ってしまった。というのも、ちょっと前に仕事しながら聴こうと

      棚からCDを、たまにゃプレスリーはどうだろ? 聴いたら、不思議に聴き心地

      がいいんだ。これまで数知れないほど聴いてはいたけど、なんだか落ち着かない

      っていうか、良さがわからないでいたの。あんだけの歌手なのに、なんでアタイ

      が楽しめないんだろう? それが、憑き物が落ちたようにスンナリはどうして?

      これまでほとんど、音楽は初聴で可不可が即決できた。でも、だんだん良くなる

      とか、あるときふっと良さが分かり始めるのってあるんだ、そんなこと当たり前

      じゃん、そう言われちゃうだろうけど、アタイにゃ新鮮な体験だったんだ。

       

       でね、厭世の最中、ぶら〜っとネット検索しててnoonのこと思い出して、

      Amazon覗いたら安かったんで、3枚という次第。この歌手との出会いは、

      ずいぶん前。ツマミを求めて来店されたお客さんのダンナが、音楽業界勤務で

      お世話になったからといただいたのがnoonだったの。我が社でこれから

      売り出したいみたいな。smilin'というアルバム。そんときゃ悪くはない(偉そう

      な言い方だ)と思ったけど、それっきり棚に並んであまり聴くこともなく幾星霜。

       

       ロックはクィーンにとどめを刺されて打ち止め、ラテンはグロリア、タンゴ

      はキンテート・レアル、演歌は石川さゆり、シャンソンはピアフ、クラシックは

      モーツァルト、ポップスはこれといって決定打はないものの、ことごとく行き

      止まり、新しい歌手なり楽曲を求めたい気持ちは日々失せているんだ。老いる

      ということはそういうことなのか? それって懐古趣味? まぁ、そうなんだろ、

      確かに当たってる、返す言葉もない、しょにょ通りザンス。

       

       でもな〜、手持ちのCD、レコードを取っ替え引っ替え聴くのも飽きるって

      もんだ。ざっと1000枚ぐらいあったって、毎日なにかしら聴けば、またこの

      曲? なんかいつも同じ曲じゃん、もちっと目新しいものはないのかい。

      古木に新芽みたいな音楽となると、スタンダードナンバーのカバーしかない。

      カバーで求められるのは、歌い手の理解(声質に合う曲の選定、曲に合わせた

      歌唱)とかスタッフの実力に尽きる。それと編曲。これらが、うまく融合した

      結果が良く出来たカバーアルバムとなるんでしょうね。

       

       石川さゆりの「二十世紀の名曲たち」は、その好例の一つだ。あるいは

      ニルソン「夜のシュミルソン」は、アタイにとっちゃ最高峰でね。これに

      比肩できるような優れたカバーアルバムを探し続けているワケ。そこで

      noonだ。4枚のCDを5連奏デッキで聴き続けている。けだるい歌唱、

      アタイだけに歌いかけているような雰囲気は上々、悪くない(なんて、

      偉そうなんだ!)。でもニルソンのような締め付けられるようなグッと

      来る一瞬はなくって、それが物足りないといえば物足りない。

       

       でもな、聴くだけのコチトラ偉そうなことばっか言ってても始まらない。

      揚げ足とるより、曲に浸って、良さを理解しないと、もう歌ってあげない

      から!  つむじ曲げられちゃうからな。いまんとこ、あなたしかいません、

      歌い続けてくんなまし、と、ここはひとまずお頼み申すしかないと

      きたもんだ。

       

      noonといえば、ハイヌーンを思い出し・・・・・・な、店主でした。

       


      女優Pは誰だ

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       当店のホームページが改装中なことは訪れた方なら先刻ご承知。友人M井

      さんが名乗りをあげてくれて、あれよあれよでとりあえずカタチになった

      ものをアップし、時間をかけて仕上げてゆこう、という次第。始めてから7年、

      そろそろ模様替えもよろしかろう、そんな折りのウレシイ提案に、感謝しきり

      平身低頭なアタイだ。

       

       それとはまったく無縁、アタマをよぎった今村昌平、本を入手したんだわさ。

      岩波書店・同時代ライブラリー「遥かなる日本人 」。読了し、てんこ盛りな

      オモロさを堪能したんだけどさ、最初手にして目次、目を通し凄い母親役の

      老女優を求めてをめっけてまずは突入の始まり。

       

       文頭「映画はシナリオ六分、キャスティング三分、演出一分で、出来の良い

      悪いが決まるように思える。キャスティングも演出のうちと考えれば、シナリオ

      六分、演出4分ということになる。よく『配役は監督が全部決めるんですか』

      と聞かれるが、もちろんその通りで、小さくても、キャラクターを要求される

      役については、熟慮の末、決定するのである」とある。この一文、名作

      「復讐するは我にあり」の母親役探しの顛末だ。ずいぶん長くなるが、一部

      全文を書きたいの。

       

       原作の下敷きに事実があり、事実を調べてゆくと、この母親A子は、浜北在の

      貧農の九人兄弟の六番目で、生家よりももっとひどい貧農に嫁ぎ、女、男、男、

      女と、一年おきに四人の子を産んでいる。昭和三(1928)年、末娘のお産の

      直後に亭主に死なれ、上三人は寺や親戚に預け、乳飲み子を抱えて死ぬほど

      苦労した。この長女が今度の映画の女主人公になるわけだが、小学校を出て

      間もなく附近で最大の工場に入社し、三千人の女工の一人としてクソ真面目に

      働き、太平洋戦争が始まる頃には、エリート中のエリートである検査工にまで

      出世している。その頃、妹も同じ工場に入り、これも頑張る。長男は、寺男

      だったが、出征し、二男は難聴者で、母とともに浜松市に住んでいたらしい。

      戦争中A子が何をしていたかは、よく判らないのだが、赤い着物に黒い羽織

      という風態で、娘たちをたずねて来た。当時四十三、四歳。金をせびりに

      来ていたらしい。若い女だってモンペかダブダブのズボンでお国のために

      働いていた時期に、四十女がケタタマシイなりをしてウロツケば、甚だしく

      目立つわけで、口さがない女工さんたちは「色気違い」と陰口を叩いていた

      という。浜松が戦災で焼けた直後、A子は二男を連れて浜松近郊の小さな町に

      現れている。

       

       街道に面した間口一間半ばかりの店造りの家に、大酒飲みで強慾で、

      おまけに淫乱な八十婆が一人住んで居り、どういう因縁か、その奥の四畳半

      に、母子は疎開したわけである。ヤミ屋の元締めもやっている強慾婆と、

      色気違いの四十女とではうまくゆくわけがなく、しょっちゅう猛烈なケンカ

      をする。戦争は間もなく終わり、終わったんだから出ていけと追われ、ヤミ

      米かヤミイモが欲しいといえば、法外な値で売りつけられる。おまけに

      七十代の職人が三人も入れ替わり立ち替わり婆のところへ遊びに来る。来れば

      ヤミ酒喰らって乱痴気騒ぎ、倅は難聴だからまだ救われるが、障子一枚で

      此方は腹を減らしてただじっと辛抱していなくてはならない。A子はついに

      我慢がならず、甘言を以て林の中へ婆をさそい出し、かくし持ったナタで

      殴り殺して、小川に屍体を投げ込む。その夜、台風は雨をともない、小川は

      氾濫して急流となり、屍体はどんどん流れて五キロも下流の杭にひっかかる。

       

       この粗雑な犯罪は、すぐにバレて犯行後五日目にA子は捕らえられる。

      娘は居たたまれず、逃げるがごとく工場を去り、急坂を転げ落ちるように

      身を落としてゆく。A子は十五年の刑をうけ、女子刑務所で十四年半過して、

      小さな貸席の女主人公になっている娘のところへ帰ってくる。もはや六十路

      を越して、頭髪は真っ白く、相貌変わり果てた怖ろしい老婆としてである。

      さて、この役を誰に振るのか?

       

       この映画大好きで何回も観てるコトチラ、ゾクゾク気分、こんなこたぁ

      めったにないことでね。ヨダレを流しながらの没頭読書が続く。

       

       このような体験を持った女優が居るはずもなく、第一、女優というものは、

      どんなに老いようと、何処かに美しさや愛らしさを未練たらしく残して

      置きたいと願う女なのであり、こんな救いようもない怖ろしさを表現しようと、

      バカ乗りすることはあり得ない。

       

       思わず膝を打ち、その通り納得なアタイ。この映画、母親A子の娘役は

      小川眞由美。実生活での小川眞由美と母親とのエピソードも猛烈に面白い。

      けど割愛。で、A子を誰にするかってことだ。映画では清川虹子が演じたけど、

      実はその前にPなる女優にオファーしてたんだ。老女優Pを訪ねて

      博多から長崎行きの車中、斜め前の席に、白いダブダブの服に、白い

      ネッカチーフをかぶった小太りのおばさんが座っていて、それがどうもPさん

      らしく、立ち上がって近づいて「しばらくでした」「ああ、せんせいでっか、

      こら驚いた、よう判りはりましたな」「どうですか、脚本読んでいただけ

      ましたか」「ああ、あの脚本(ほん)、おもろいわ、けど私にはちょっと

      難しいな。あの婆さん恐いわ、マサカリでやりまっしゃろ、古井戸のとこで

      バーッと」「はい」「あれいかんわ、あんなこと出来しまへん」「しかし、

      あれは芝居やさかい・・・・・」。私も下手な関西弁となる。「芝居かて先生、

      脚本に書いたるでしょう、鬼気迫る形相って。あれ出来んわ。大体私は凄味が

      ききまへんね。といって私のキャラクターに合わして脚本直してもろたら、

      全体がダメになりますよってな」

       

       ということで結局は鳥栖辺りで断られた。そして「先生、コーヒーでも上がり

      まへんか」。コーヒーを飲むPさんの顔を見た。凄味のある恐い顔であった。

       

       はて、Pなる老女優は誰なのだろう? 車中でのやりとりから大阪の方だろ、

      老ということからおおよその年齢とか、小太りで、ダブダブな服、ともに白い

      ネッカチーフをかぶっているような女優だ。大方の女優は美しいが基本だから

      除外、スポーツ系もありうるけど役者経験が必要だからこれもない。ならば

      清川虹子と同じ喜劇系か。Pなんて名前なんてないからこれは単なる記号に

      すぎない。浅〜い知識しかないアタイには、ミヤコ蝶々しか思い浮かばない。

      凄味がないことも当たってる。でもちょっとした一瞬に凄味がある恐い顔が

      出現するのも彼女らしい。A子役は断られたけど、それでもと同映画で

      古い旅館の女主人?で出演してもらいたい、とネバッたんだろうという推測も

      成り立つ。断られてそのまま引き下がる今村昌平じゃないもんな。

       

      こんなこと知ったらまた観なくちゃならん・・・・な、店主でした。

       


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